夜空 be quiet

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Ae Found Kiss

ロバートバーンズとナンシーとの不倫の恋が絶たれ(1787年~1791年)、絶望の闇に覆いつくされ、出会わなければ別れる苦しみもなかったのに、それでも、女神も自分も責める事無く、心の苦しみを耐え続ける決意をした時に、ロバートバーンズが作詞した歌

 

 

磐長姫
秦系(ヘブライ)の姫で、環状列石(岩長)に関係する姫ではないか、ブサイクで瓊瓊杵尊に断られたのではなく、猿田彦を騙し討ちにした瓊瓊杵尊に服従するなどプライドが許さず、また拒否できる程の部族の一員と思われる。
ブサイクではなく、 顔が細く、鼻が高く、笑うと歯茎が出るフィフィのような美人だったのではないか。

石はレコードのように磁気記録が安定しやすい物体で、列石に囲まれた磁波が、星辰信仰のシャーマンにとって、何らかの波長を受取りやすい神聖な場に保つのではないかと想像します。星の波長を受取るのか、亡くなった魂を星の世界へ送るのか、列石がアンテナや清めの代わりをしていたのではないかと想像します。
それが神社の境内の周りにある玉垣に成ったと思います。

 

 

物部
物部とは、神武東征後にヤマト連合の主要部族をひとくくりに物部と称したと思いますが、その中でも重要な部族が秦系であり、物部の十種の神宝の法を用いる。 卑弥呼は物部のヤマト族(ヤマトと秦のハーフかもしれない)。
紀元前660年頃 ヘブライ系秦の、「天御中主」と後に命名された民が移入し、その後裔に高千穂を中心とする九州の五部族の長となる猿田彦、環状列石に関わるエジプト系美人の磐長姫などいる。
十種の神宝とは、通常の意識から離れ、潜在意識に移る催眠術の法具と思う。
【ひふみよいむなやこと にのおとふるべゆらゆらかくいのりてせば まかるともさらに生きなんと
ゆらゆらと催眠を懸ければ、シャーマンを通して亡き人と話ができる

又は、十種の神宝とは、鎮魂の法を行う時の祭りの場を表す。
澳都鏡=遠くを映す鏡(過去の本心を知る為)、辺都鏡=近くを映す鏡(現在の本心を知る為)、八握生剣=八人の剣を携えた者(邪気等邪魔を入れない為)、生玉=生きている人(言い分を聞き説得する為)、死反玉=あの世の人(言い分を聞き説得する為)、玉足=応じる魂(素直な魂に協力してもらう為)、道反玉=背く魂(何もかも吐き出す為)、蛇比禮=偉大な神霊(場に畏怖を表す)、蜂比禮=見抜く神霊(誤魔化しが出来ない)、品品物比禮=八百万に宿る神霊(神霊の知見の下)
これらが整いて鎮魂の法を執り行うのだと思います。神聖な場を設けて、無念や怒りの魂を招き入れ、語り、心を解くのだと思います。

物部は軍事部族ではない。 星辰崇拝部族であり、 後にBC3世紀に秦系(徐福)の移入がはじまり、力を持ったため強大になったのだと思う。
【いつき奉りたまふなづけて石神大神と申奉り】(巨石信仰)

 

石上神宮
剣に籠る神の魂を鎮め、神として祀り味方に就ける
神を奉る神社を武器庫だと何故思い込むのだろうか、作為や誤認を、不確かにして、根拠と言い換え、証拠となる。


太秦
神武東征時、神武は秦の太玉命の協力を得て備後・備中・備前を征討出来、東征を成功に導いた報酬として、太秦・徳島・千葉・筑波等を授かる。そして饒速日はクナト・ヤマト系が入っているのを、秦系であったように操作し、ヤマト連合(邪馬台国・大和朝廷前)王が秦系であったように操作した。 そして太玉命が天孫族系であるような表現をしたのだと思います。

 

海人と綿津見と隼人と安曇
神武は懇親な海人(竜王系)を隼人といい、九州北部の海人を渡津見とか、入り江に居るから阿津見、安曇(阿=曲がって入くんだ所)(渥美半島)と言ったのだろう。習慣は同じだったがシャーマンにより習慣が変わって来る

 

ヤマト族
東南アジア・沖縄から入って来た海人族で卑弥呼はこの一族、竪穴式住居と高床式住居を使い、丘陵上に住む、箱式石棺墓を使用する、シャーマン気質、 竜王族(イザナギ系や住吉系や呉越の海人)は遠戚

 

邪馬台国  (ヤマト近畿連合=ヤマト大国=邪馬台国)
57年頃は魏に対しては奴国が主要国であり、以降ヤマト族が台頭してきて、180年頃ヤマト連合が魏に対して主要国となり、卑弥呼はその頃生まれる。そして卑弥呼の優れたシャーマン性が要となり、220年頃ヤマト連合に負けない近畿連合を含む広大なヤマト近畿連合邪馬台国となり中心は近畿に移る。 卑弥呼以前の近畿を含まないヤマト連合国の名は魏に対してまだ出来ていなかったと思う(倭国)。近畿を含み大国になったので邪馬台国と言われ、崇神天皇(神武)以降は大和朝廷。


九州王朝(九州連合)

筑紫君磐井は筑後国熊襲国(親新羅)になるが、朝廷に献上したのが筑前国糟屋郡では熊襲国が糟屋郡まであったことになる。 熊襲国は地形的に大宰府の南の筑紫野市から大牟田辺りと思われ、ヤマト連合国(親百済)は大宰府以北と思われる。 なのに粕屋郡を献上したというのは、応神天皇以降、神功皇后と熊襲国と新羅同盟が筑紫国同盟を推進(侵攻)し、糟屋郡まで広げていたので、 継体天皇の時、糟屋郡を返すという事象ができたとしか考えられない。 だとすれば、継体朝廷の反対勢力は神功皇后新羅同盟の子孫と熊襲と筑紫となる。 (応神天皇は391年 百済を攻め始める)高良大社が高良玉垂命という神功皇后に関係する祭神とされ、三井あたりの水神は何由来か分からなくなっており、高良大社の4世紀以前の歴史が完全に消されているのが、370年頃神功皇后による九州王朝成立の証しと見える。 その時には熊本の球磨族、鹿児島の曽於族は神功皇后勢力に征服され、《神功皇后勢力》では大和朝廷に対して都合が悪いので隠れた勢力であったが、中央からは《熊襲族》と言われた。


卑弥呼
記述がないので、8世紀の朝廷側とは直系ではない人物であるから、物部系と思える
ヤマト族の父(黄人)と秦系の母(白人混じり)のハーフではないか、福岡~出雲はヤマト族、宇佐~広島・松山辺りは秦系、そしてどちらにもハーフが居る。
九州から近畿の国々が大巫女と認める偉大なシャーマン
卑弥呼は誰とも会わないので、魏に「卑弥呼は鬼道を使い、衆を惑わす」と蔑む報告をした一族(奴国)とは敵対関係 

【全ての文献が客観的正確ではなく、事実とする証拠にはならず、根拠にならないから説が幾つもある。 あなたを妬む人が、あなたを評価し、文献に残したら、冤罪を受けたら、何よりもそれを信じた人々に絶望するでしょう。 古文献にどれだけ真実が正当に書かれているでしょうか。 とんでも歴史という言葉を使って、先駆者の大家から外れる事を許さない古代史研究の大家の人達が言っている古代史は、勢力側や反抗側が創った文献で、事実を書くわけがなく、古代から尾ひれが付き続けており、これこそとんでも歴史なのに、だから古代史研究に興味を持つものが多いのに、いつの間にか大家の押さえつけに洗脳されてしまい、大家の仲間入りをしようとしている。古代の人の生きた経験を無駄にし、陥れた者勝ちを証明する歴史になり、冤罪は晴れないのだと、社会が乱れる基を積み重ねている。歴史を学ぶという事がどういう事か、本や大家のピラミッドを作る事ではなく、人間を知って、自分を知るためにあるはずです。】

 

大国主と素戔嗚
縄文時代は環太平洋には国境が無かったから、人は自由に足軽く移動していたと思います。ポリネシアから日本へ、日本からポリネシアへ、ポリネシアから南米へ、台湾から北海道へ、遊ぶ楽しみの無い好奇心の強い縄文人は、遠距離を移動することが遊行のように足軽く移動していたと思います。しかし、弥生後期は多くの国に分かれて大乱状態であるから、自国を出る事は難しいと思います。そんな中、出雲地区の大国主が近畿や九州に自分の縄張りであるように移動できるわけがありません。素戔嗚が高千穂や出雲や紀伊で主導的に行動できるわけがありません。多くの国に分かれて争っていたから、卑弥呼を共立して邪馬台国を成したのだから、それまでは王のような者が自由に移動できるわけが無く、自分が守る地区の外に出るはずがありません。
各地の大国主や素戔嗚、豊玉姫等の名は、前権力者の名を消すために当てはめたのであって、その前権力者が大国主や素戔嗚等の同族であろうが、敵対部族であろうが構わず都合の良い名を当てはめるのです。それに出雲の大国主は卑弥呼が亡くなったので、素戔嗚に攻められたのであって、その後素戔嗚が出雲の王になったのです。徹底的に各地の前王の名を消しているので、もう分かりません。ただ8世紀の政権の物語に都合の悪い人物がそこに居たという証拠に成るだけです。同族か敵対かは関係なく、物語に都合が悪い事象を隠すために当てはめ誤魔化したのです。年代も名前も関連付けも伝言が、その時々で都合の良いように創られます。  そのような嘘が人間の癖です。

 

出雲の国譲り
出雲にはクナト系とヤマト系の民が共存していました。
ヤマト系の卑弥呼を共立して、出雲以西のヤマト連合と近畿連合が、ヤマト大国(邪馬台国)に成りました。
この連合を成すために大きく働きかけたのが、当時の出雲国のヤマト系の王でした。
畿内は尾張クナトから派生した部族が住み分けた土地で尾張の王の下位の土地だと思います。220年頃、畿内はクナトや渡来人、秦などのいくつかの部族間衝突が絶えませんでした。尾張の科戸~科野はそのようないさかいは少なくまとまっていました。
欠史8代の綏靖―安寧―懿徳はその尾張クナト系の王を表していると思います。
その尾張クナトの世襲足姫と婚姻することによって出雲のヤマト系の王が、卑弥呼を共立して大連合を建てようと畿内に働きかけ、尾張クナトの後押しもあり大連合が成立しました。
卑弥呼が女王になると、その立役者の出雲の王は、邪馬台国で大きな影響力を持つことができ、大国主と言われました。 大国主は卑弥呼の縁者であることを後ろ盾に、中央へごり押しをしたかも知れません。 その為中央に嫌われていたかも知れません。 出雲大社で西向きに祀られているのは、「貴方は中央に口出しせず、出雲以西を見ていなさい」という意味かも知れません。
248年頃、卑弥呼が亡くなると、丹波辺りに居ましたクナト系のスサノオが、吉備から侵攻し、ヤマト系の大国主を攻めました。その時、大国主が殺されたか自害したかは分かりませんが、スサノオが出雲を征服し、近畿を含む邪馬台国の男王に成りました。
スサノオは大市姫と結婚します。大市姫の市は「神の言葉を降ろす神の子」という意味で、大市姫は偉大なシャーマンでしたから、台与と言われる女王になりました。
それ以降、出雲の地は主要国では無く成り、影響力を持たないように見張られました。
邪馬台国(ヤマト大国)を成し得た立役者の大国主とヤマト民の口惜しさは、大和朝廷にとって、祟りという懸念になりました。
スサノオは、250年頃の人で父は磯城県主大目(畿内クナト)。母は辛国息長大目(新羅系)、赤留姫とも言われました。
磯城県主(アコタヌシ)大目は畿内主要勢力の磯城氏・志那都彦・級長戸辺の系統で邪馬台国に成る前は、瀬戸内や隠岐などと交易をしていたクナトの大部族です。樹木繁茂せる山領を司配する志芸(シギ)山津見神は磯城(シキ)氏と思います。
磯城県主大目は同時代に瓊瓊杵尊・猿田彦が居て神話の系統とは重複してしまいます。赤留姫の新羅系は親百済の大和朝廷にとってよろしくありませんでした。 さらにスサノオと大市姫の間に饒速日が生まれていていました。饒速日は市杵島姫と結婚し、市杵島姫の優れたシャーマン性から畿内の主要勢力に成ります。スサノオ~饒速日の系統の働きは完全には隠しきれるものではありませんでした。しかし、それを認めると瓊瓊杵尊系統が薄れてしまう為、隠したかったのです。
畿内クナト系のスサノオ~饒速日の系統は後に大市姫の市から十市氏になり、尾張クナト寄りの宇摩志麻遲は磯城氏系統のままになりました。
出雲大国主と尾張クナトの世襲足姫と婚姻からの天皇の名は考の字を使い、孝昭天皇が大国主、考霊天皇が磯城県主大目、孝元天皇がスサノオ、にあたると思います。
台与(大市姫)は世襲足姫と同じ様に尾張クナトから嫁に出たと思います。科戸~科野の伊勢~尾張~信濃はクナト勢力の主要土地に成っており、渡来人が住んでいない田舎地でありましたが、畿内からは一目置かれていました。だから三種の神器がある伊勢神宮や熱田神宮があるのです。
大祓詞に【科戸の風の~如く】【焼鎌の敏鎌以ちて打掃ふ事の如く】とあるのは、【級長戸辺も厚い雲を吹き放つ様に、霧を晴らすように、大船が大海に出る様に、従わない者を十握剣で討払い、統一したのであって、統一の為、誰でもすることで仕方なく、罪では無いよ】と、大和朝廷側が以前のクナトが統一した時の様子を書いて仕方ないことよと言っているのだと思います。
伊勢神宮にも数本の剣があるらしいのですが、十握剣は十本の剣という意味だと思います。剣を数える時、本ではなく、握りを言ったと思います。
中央の畿内も科戸は崇敬せざる負えない所だったと思います。倭姫が伊勢に決めたのは最初から伊勢に移せば中央の権威が下がるので迷ったあげくとしたのだと思います。

 


戸隠とアラハバキ
科野はヘブライ系秦とクナトが住み分けしていたと思います。
ヘブライ系秦はモレヤとミシャグチから、
クナトは 戸隠の社紋が鎌から、クナトの紋だと思います。 草薙剣は刃の部分が草を刈り込むように内反りの方に付いている剣、十握剣は十本の剣だと思います。  蛇神信仰から、出雲の蛇、三輪山の蛇、伊吹山の蛇、戸隠の蛇はクナト系の神だと思います。   墓域習慣から、4000年前青森野場遺跡では竪穴住居廃絶後、配石遺構の下の竪穴に、埋甕が出土。4000年前長野安曇野市北村遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、そこが墓域となる。4000年前奈良宮の平遺跡では竪穴住居廃絶後、環状配石遺構となり、配石下の土坑から埋甕が出土。など、配石遺構の下が墓域になったであろう習慣が同じであるから同民族であると思います。
武御名方は出雲から逃げて来たのではなく、元々科野にいたクナトで、秦系の娘を貰う事で、クナトと秦が共存するように成ったのだと思います。 科戸~科野~越~丹波~出雲はクナトの主要道路だと思います。
戸隠はクナトのシャーマンであるアラハバキの流れの大巫女を大岩で封じた事を、高千穂から大岩を下界へ投げ落としたと、話を変えたのだと思います。
それは崇神の時だと思います。手力男は神武の大和入りに協力した武甕槌󠄀かも知れません。クナトの武御名方と同族で、当時春日に住んでいて、東遷後の戸隠の大巫女を大岩で封じたかも知れません。角力の元祖と言われる。その頃から安曇が入って来たと思います。
応神の時代に成りますと、崇神勢力から応神勢力に替わりましたから、各地の伝承を応神の正統性を表すように変えないといけません。 科野は崇神の時は五百建命を置いて統治しましたし、古代から続くクナト、秦、崇神の色が強いので、応神勢力が正統である様に尾張系図として新しく編さんし、応神天皇に繋げたのだと思います。
海部系図も応神勢力に替わった時編さんされ、丹波もクナト、秦の色が強いので、海部から応神へ繋ぎましたが、天照もイザナギもイザナミもスサノオも居ない系図では引け目を感じるので、科戸も科野も丹後もクナト系の同族が居たと思いますが、尾張と海部は火明命を祖とする同族として正史に近いと思わせるようにしたと思います。
火明命は誰の諱か分りませんが、せめて天照大神に代わる者が欲しかったので、天照す太陽の欠片の火の神が明るく照らす命としたのだと思います。

 

天照大神
太陽の神霊が宿る人
卑弥呼の死後日蝕になったので、その時生まれた、又は神懸った優れたシャーマンが向津姫で日霊女神と認定される。
後に向津姫の娘の市杵島姫も太陽神霊が宿ると認定される。 「向津姫と同神」というように 【同神】 というのは、権力者が替わり人の入れ替えもし、名前が変ったが, 民には神は変わっていないですよという ごまかし、か、分け御魂を引き継ぐ者。 例えば、向津姫を祀っていたけれど向津姫は封印し、身内の姫を向津姫として祀ったり、 だから【同神】という裏には【封印】や世代交代が含まれる場合がある。

 

表面には隠れたままアイヌの意志が残っている

アイヌは、神の国カムイモシリと人間の国アイヌモシリと死者の国ポクナシリがあります。
神の国と人間の国を結ぶのは火の神で、火の神を通じて様々な神と繋がります。火や水など暮らしに関わる依存度の高いものほど位が高い神になります。人の為にならない地震や伝染病は悪い神になります。

家の東の神窓の外には、幣柵があり、様々な御幣が置かれ、火の神に語られた言霊は神窓を通して幣柵に送られ、御幣に乗った言霊は幣柵から鳥の如く神の国に飛び立ち、それぞれの神に伝えます。

神の国では、森の神や海の神などが、あの世とこの世のことを語り合ったり、誰をこの世に送ろうか話し合ったりしています。様々な神は、この世で動植物の衣をまとって仮の姿で現れています。この世の万物には神が宿っています。この世に降りる場合は、依代である高い山とか森とか木とか神聖な場所に降りて来て、そこから肉体の衣をまとって川沿いに進み、村に訪れます。神の国に帰る時も幣柵から川沿いに進み、依代から帰って行きます。あの世の入口はカムイトーと言います。

亡くなった普通の人間の魂は、頭を東にして埋葬し、起き上がって西へ、火の神様が選んだ配下の神々が先導してあの世に行きます。西はあの世では東になり、後から後から子孫が来るので、年数が経った先祖はあの世の西へ移り、この世の東へ生まれるのです。
鹿などの小動物は個々の魂ではなく、その種の魂ととらえます。熊は個々の魂ととらえます。熊は偉い神さんなので、御魂送りをする時、共物を沢山供えます。熊の魂は神の国に帰った時、共物を分け合い、共物が多いほど神位が上がり、再びこの世に来ると考えます。人を食べた熊は悪い神なので、ばらしてその場に捨てます。そのような悪い神や、悪い人間は、再生する事のない、腐ったような場所テイネポクナシリへいきます。
このアイヌの風習は「火の神の懐にて」の著者の松居友さんとアイヌのイトばあさんの話から引用したものですが、他にも沢山、神の国カムイモシリや死者の国ポクナシリのことが詳しく書かれています。

私はこのアイヌの生き方が神道や古代史に残っていると感じます。まさにクナトがアイヌの流れだと思います。
始めに生命の生まれる東・太陽があり、その意識が表れる山があり、死に行く西が在り、その表れが海であり、山と海を繋ぐ川があり、その途中に村があります。
アイヌの聖地、賀張山ポンニトイエ岳の山頂に、神の国から人間の国に、ニシカンル姫(雲)が降りて来ました。山一帯の神は男、水は女の神です。生命の生まれる東の山から、死に行く西の海を繋ぐ川の話は、瀬織津姫の話元、ニシカンル姫ではないでしょうか。
チキサニ姫(ハルニレの木)はカンナカムイ(雷神)がひと目ぼれして雲の間から落ちて、身籠り生まれたのがアイヌの先祖です。雷神はアイヌではないでしょうか。
森は大地と樹木を司る神々が乱舞するところで、熊を神の使者として神聖視しているアイヌは、紀南を熊野と呼んだのではないでしょうか。
樹木繁茂せる三領を司配する志芸山津見神(シギヤマツミ)は磯城氏(シキ)でアイヌではないでしょうか。
かまどの神大戸比売は、天火明命は、火の神を中心に考えるアイヌではないでしょうか。

歴史を創るのは強者ですが、歴史は民族の知性・精神が創ったものですから、作為を入れず正しく歴史を伝える事が、自分では気づかない民族性が出来た流れが見えて、自分が見えてくると思います。
先人の経験を正しく伝えようとしない民族はいずれ崩壊すると思います。
歴史を封じれば、嘘の誇りの為に志を見失い、覚えられない法律を作り続けないと社会が維持できず、いずれ崩壊すると思います
弱肉強食を捨てようとしている人間は、力による支配は受けない約束のはずなのに、勝てば支配が許されるから、戦争が無くならない。戦争に勝ったら立場が上になる。それなら法律は要らないのにおかしなことです。
作為の無い歴史を長く伝え続けていくほど、穏やかになる事を学ぶことができ、身に付いてくるのだと思います。
「人生は一度きり」ではなく、数万年前からのリレーの途中なのです。人間は当たり前にしてはいけない事を繰り返しするのです。ものごとは傲慢な者の方へ事が進まないと解決しないのです。だから本当の事を言う者が潰され、正しかった言葉が消されていくのです。

人間は共通の価値観の中で生きることが幸せと感じるのですが、全くそのような状態になる事はあり得ません。
常識は平均的な価値観で成立している様に見えますが、誰にでもあてはまる事ではありません。あてはまる人ほど幸せで、外れる人程ストレスを感じるのです。
大きく外れたイエスや釈迦やマホメットは共通の価値観の中で暮らせるという幸せを得ることが出来ない中、出て来た一部の人達だと思います。
人間は知恵があるから、価値観が雑多に分かれています。せめて価値観が全く違うという事を認識して、共存できる敬える心を常識として学ばなければいけないと思います。
人間は自分だけ優位に居続けることは不可能なのです。

人間だけが、絶望し、そこから気力を見い出し、再び悩み迷い、同じことを繰り返し続ける。
宇宙から見れば地球が無くなっても何でもないのに、 未来から見れば今は過ぎ去った過去なのに、物も権威も壊れるのに、 どうせ人間はふびんなのだから、過去に何が有っても、隠し事の無い魂だけが、怯えることがなく、この上なく幸せなのに、なんで、はかりごとを巡らすのでしょうか。
はかりごとを巡らしてもほんの数十年なのに、そのために何百年という死者の国ポクナシリを腐ったような波長のテイネポクナシリや、人をけなしたり威圧したり、欲やこだわりの波長のポクナシリで過ごし、成長しないままこの世に生まれ出るなんて、勿体無い事です。
せめて元のすがすがしいすなおな波長の死者の国ポクナシリに帰り、世界中の多くの仲間と再会を喜び合いたいものです。
「人は一人では生きていけない」ではなくて、「人は一人ではないのです」

下載のスコットランド民謡の Auld lang syne の曲は、 ヘブライ人のダンサーたちによってスコットランドに伝わったダンスの中からきているそうです。 その曲にロバートバーンズが詩を入れました。 世界各国で翻訳され、年明けに歌われています。 日本では編曲され詩を替えて「蛍の光」で知られています。「変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、流れた時を埋めるために」と唄っています。 
 

 

クナトと伊勢
クナトとはあの世との意思疎通に長けていて、日常の神への礼拝や救いを求めたり、霊の御魂送りや、霊障に対処する知識を普通に持ち、まつりごとをしていた民族の事をいったと思います。
アイヌでカムイトーは神の国と繋がっている処、クは句点の切れ目、ナは納める、で、あの世と繋がっている境に精通している民族という意味だと思います。シナ戸は風の神の表れる処、カマ戸は火の神の表れる処、戸隠しは神の表れる処を隠した、などです。
クナトの大神はクナトの王の事を言い、アラハバキはクナトの巫女の事を言い、大戸比売はクナトの火の神の巫女のことを言っていると思います。アイヌは火の神を中心に様々な神々と通じます。
伊勢に天照大神が祀られているのは、九州系統ではなく、尾張クナト系統だからだと思います。
その神は台与だと思います。
それまでで、偉大なシャーマンは、ヤマト族の卑弥呼、イザナミ系の向津姫であり、崇神天皇は向津姫を最高神として祀りましたが、不吉な事が起こるので、クナト系の台与を最高神として台与の名を使わずに天照大神として、台与が祀ってある多度大社のクナトの地と同じ伊勢に祀ったのだと思います。

 

市杵島姫
昔はイツキのシマと言っていました。[下記の客人神社の説明] イツキ(潔斎して神に仕える) しま(揣摩ー未知を推量する) 市子(生霊・死霊の意中を述べる神子) なので、 心身を浄め、生霊・死霊と波長を合わし、神霊の言葉を降ろし、政(まつりごと)を導く神子(シャーマン)。

 

下照姫
290年頃、台与の次代のシャーマン
朝廷の直系ではなく、物部系であるから、後世、姫許曽の赤留姫と同神と作為して、物部系の印象を薄めた
陸耳御笠(丹波大己貴)と匹女(菊理姫・多紀理姫)の娘で葛城の太陽神であったが、宇摩志麻遲が軟禁状態であったから、名草戸畔亡き後の紀伊のシャーマンとして名草姫として任される(草の主は菊の異称)(ヘブライ秦系)

 

名草戸畔
畿内は出石系大綜麻杵命系が主要勢力になろうとした目論見がシャーマンの優劣で失敗し、270年頃には饒速日命勢力が畿内の主要勢力になる。そこで出石系大綜麻杵命勢力の伊迦賀色許売と孝元天皇(スサノオ)の子とされる彦太忍信は紀国を狙い、名草戸畔を殺害し、名草戸畔の姉妹の山下影姫を娶り、紀国を執る。大和中心は饒速日勢力から崇神(神武)勢力になりましたが、 紀国はスサノオ(孝元天皇)と縁があるという名目で出石系伊迦賀色許売とスサノオと武内宿禰色の強い地区となっていた。
その後、神功皇后勢力が畿内入りを狙うにあたって、出石系伊迦賀色許売後裔勢力と協力し、秦色の強い大市姫(250年頃)系統から崇神系統(300年頃)の勢力弱体化を計り、畿内を制圧する(390年頃)。
伊迦賀色許売は開化天皇(饒速日)との間にも崇神天皇(神武)を産んだとあるが作り話であり、彦太忍信も孝元天皇(スサノオ)との間の子ではないと思う。彦太忍信が名草戸畔を遣った(270年頃)のは、神武が畿内に入る(300年頃)以前の事で、390年頃、出石系伊迦賀色許売系後裔勢力は神功皇后勢力と協力して再び紀国を奪い取ったので、270年頃の名草戸畔殺害の所業を300年頃の神武の所業とし、祖先の罪を消したものと思います。

神武が紀南から入ったのは、紀南はたぶん山祇系であり、山祇系の木花咲夜姫との縁で河内から紀南の協力を得るために紀南から入ったと思います。 途中、名草戸畔を遣った事に成っていますが、戦力が落ちているのに、紀南へ行く途中で、わざわざ名草戸畔を遣る動機がありません。 

 

小説 ふびんな三女神
三女神が宗像を奉斎する前には、 前統治者の巫女が奉斎していた。
前統治者とは三世紀中頃の、ユダヤ系秦の猿田彦と、イザナギ竜王系向津姫との子の市杵島姫(筑紫大神)の流れです。 その約100年後の350年頃に新羅系五十迹手が市杵島姫の流れの部族に婿入りし、 後に神功皇后となる虚空津姫を産みます。 虚空津姫はイザナギ竜王系の娑渇羅竜王との間に、 応神天皇・八幡姫・頗理采女・善女竜王を産みます。 370年頃、応神天皇として畿内へ入る頃、 神功皇后は市杵島姫の流れが奉斎していた辺津宮の地元民に、 これから神功皇后の三姉妹が奉斎するので、 三姉妹用に宮を三カ所用意するように要求します。 地元民はあまり深入りされたくないので、 思案のあげく、 辺津宮と大島と沖ノ島は大切な神籬であると説明し、大島と沖ノ島にも宮を用意しました。三姉妹は宇佐から宗像に出るのも嫌でしたのに、さらに沖ノ島まで行きなさいと言われ拒んでいたら、 沖ノ島は新羅と繋がる一番大切な神籬であるから行きなさいと説得され、 三姉妹は交代しながら三宮を奉斎することにしました。 長女は優れたシャーマンでしたが、次女と三女は巫女性が低く託宣があまりよろしくないので、長女が辺津宮と大島を移動することにして、 次女と三社が辺津宮と大島と沖ノ島を移動する事にしました。 長女は巫女性が高いので地元民の考えはすべて分っていましたが、 自分たちの傲慢さと地元民の心も十分理解できたので仕方なく黙認し、 次女と三女は地元民の考えを見透かす程のシャーマンではないので、与えられた神籬をやけに成りながらも真面目に奉斎していきました。 後世三女神として祀る為に、 初代の市杵島姫とその姉妹の湍津姫・多岐理姫の名を使いました。

以前大島に行った時、何かおまけに付けた様な場所だなと思いましたのと、沖ノ島の祭祀が4・5世紀からというのは新しいなという思いがあり、菊池展明さんの「八幡姫とは何か」の中に 【かつての辺津宮は、新たにやって来た「惣社」に、その祭祀場を譲ったかたちとなったとようです。】 とありましたので、私のイメージが膨らみました。

 

因幡の白兎
AD230年頃、近江辺りはクナト系の葛城尾張連合や、秦系の徐福子孫と渡来系漢人等が住んでいたと思う。
秦国から逃れ新羅辺りに移住した漢人が230年頃、遠戚の秦を頼って近江辺りまで来て住みましたが、先住のクナト系民に祖国秦の自慢をし、倭国を愚ろうしたので、葛城や尾張の民にコテンパンに遣られ、丹後辺りまで逃げていたのを、当時の丹波大国主である伊和大神に拾われ、出雲と丹波の境になる円山川上流の出石に住むことを許された。 後に天日矛と言われた。 その恩あって、後に秦系の少彦名が伊和大神の次の丹波大国主である大己貴の手助けをする。出石の秦の事を表だって蔑み難いので、因幡の白兎とした。

 

八十枉津日神
魏がシャーマンの事を鬼道と愚ろうしたのを知った後世の者が、八百万の中心の日神を愚ろうして付けた名前。 このように「他所の庭」の言う事が正しく思えるような人の事を、夏目漱石は「新しい物に飛びつき、100年の習慣を捨てる未練無き国民、想像力に欠ける国民」と言ったのだと思う。

 

丹生都姫
丹を生むのだから後付けの名であろう。爾保とは異なる。
天照の姉妹というのは天照の時代頃の天照の親族か子孫という意味合い。
豊後辺りに居て水銀鉱床に敏感なシャーマンであり、神武の東征に同行し協力した。
大和では縄文時代は火の神、水神、土の神など自然神霊を奉っていたので、その水神に替わって丹生都姫として祀った。
丹生都姫は神武の母の玉依姫の娘で、鵜草葺不合尊ではない異父(イザナギ系)の娘と思う。

 

アラハバキ 武甕槌󠄀の祖先 世襲足姫 奥津姫 大戸姫
クナト族で神はアラハバキーアラは、霊験あらたかな(荒神と書いてアラ神) ハバキは、はばかるほど畏れ慎む、畏れ慎むほど霊験あらたかな神、神をいたこが口寄せする文化。 脛は後世の都市伝説(寒いからルーズソックス履いているでしょスコットランドの正装、髭生やして酒飲みで)が広まった。

熊野神社
全国にある熊野神社は、東はクナト色の強い神社を熊野と改名し、西は熊襲や狗名色の強い神社を熊野と改名したものと思います。
熊野本宮の創立は崇神天皇の御代とされ、熊野権現は唐の天台山を飛び出され、日本国鎮西の英彦山に八角の水晶の姿で降臨し、五年後に、伊予国の石槌󠄀山に移り、六年経て、淡路の遊鶴羽の峯へ、更に六年過ぎて、紀伊国牟婁郡切部山の西の玉那木の淵の松木のもとに移られたという。それから五十七年後に、熊野新宮の南にある神蔵峯に降りられ、六十一年を経て、新宮の東にある阿須賀社の北、石淵の谷に移り、結速玉と家津御子の二字の社に祀られた。とされ神話の作りと同じ様です。
崇神天皇の御代に、命を生み出す霊妙な力を持った熊野夫須美大神はイザナミとされ、勢いのある熊野速玉大神はイザナギとされ、食糧の神とされる熊野家津御子大神はスサノオとされたのだと思います。
しかし、本来の神は、熊野夫須美大神はアラハバキ、熊野速玉大神はクナト大神、熊野家津御子大神は大戸比売(澳津比売)(かまど神)だと思います。三神を三宝荒神と言ったと思います。(荒は霊験あらたかな)
山形の熊野大社の本殿裏に、うさぎが三羽隠し彫りされています。兎を三羽見つけた人は「願いが叶う」「幸せになる」と言い伝えられています。これは隠し意味だと思います。「兎に祭文」と言って、「兎に神仏に対する祈願や祝詞を言っても解からない」という意味です。わざわざ叶わない意味を持つものを隠し彫りするでしょうか。熊野大社の元の神はイザナミ・イザナギ・スサノオの三神ではないから、アラハバキ・クナト・大戸比売を胸の内に思い祈願しないと叶わないという意味だと思います。
だからホツマツタエで筑波山にイザナミ・イザナギが居ることになるのです。だから筑波男大神はクナト大神、筑波女大神はアラハバキ神だと思います。


 

饒速日と伊須気依姫
イスケヨリヒメは大久米の刺青を見て驚いたので九州ではなく大和の民
神武(崇神天皇)の嫁(服従の証し)だから九州でなく、大和の民なので両親も大和の民、大物主(饒速日)は崇神(神武)にとって祟り神だから大和の民。 饒速日も伊須気依姫も東遷したのではない。

火明命が誰だか分からないけど、火明命はハワイの火の女神ペレの流れの発想かもしれない。日の神から太陽の欠片の火の神を産み噴出という発想と思われる。 ハワイの瓢箪楽器でイプヘケのチャントで火の女神ペレに地震を治めてと話架けたかもしれない(瓢箪・鯰・地震)。 ハワイはふんどしも着けるしホラ貝も吹く。
サンベはアイヌで心臓のこと、三瓶山は血を噴き出す山でもあり、火の神の山でもある。

 

客人神社
客人(マロト)とは、外人という感覚がない時の言葉で稀(マレ)な人のこと。ユダヤ系秦のエジプト・ケルト民族等を客人と言ったと思う。九州では古くから居たので客人ではない。
出雲、広島、松山辺りはユダヤ系秦民族と海人のヤマト民族のハーフが沢山居たと思う。見慣れないので客人。
白日別とは新羅の分国と言われるがそうではなく、白人族という意味。伯家神道は秦系が元の神道と思う。 白川は白皮は白人

海老山の麓に湯蓋道空夫婦住み、厳島大明神を崇敬し奉り、ある時、市杵島沖に蓬莱浮く(蜃気楼)、金波の中を船で進み砂金を汲み入れる蓬莱を見ると、屋の傍に温湯湧き出し、富貴なり塩浜の長者となり、道空深く感激し、厳島明神の霊験だと、敬神の念いや厚く、客人社壇を再興し、市杵の島の大神を勧請し、厳島神社の摂社として塩竈の神を相殿に猿田の彦を神祀る。(市杵島姫は竜王系の日霊女と秦系の猿田彦の子であるから、黄人と白人のハーフ)

市杵の島(潔斎の揣摩ー未知が見える) 猿田の彦(猿田族の男王) なので壱岐対馬の姫でも斎き島の姫でもない。 市杵島は潔斎して神に仕え未知が見える神子シャーマンの事。

 

安芸津彦(天湯津彦)
以前の伝承が無く、突然現れた安芸の王
神武東征前は広島西部はユダヤ系秦民族と海人のヤマト民族の混生地域であったと思うが、神武の東征に際して反抗するものは例え同族であろうとも遣られているのを知った安芸津彦は、神武方に付き、安芸の王になったように思える。遣られた元の王は名前も古墳も無い。

 

河童と胡瓜と祇園祭と少彦名と埴安彦

胡瓜はメソポタミア原産でシルクロードから6世紀頃日本に入ってきたと言われている。が、それ以前にユダヤ系秦が日本に持ち込んだかもしれない。薬だったかもしれない。
胡瓜は、八坂神社の木瓜紋や、祇園祭で胡瓜を食べないなど、秦に関係する。
河童は河伯からきているらしく、河伯は河の神であり、古代中国の秦国の九千坊のことを河伯と言うこともある。だから、河童と河伯を混同し、秦と関係している。

地元の日吉神社に河童の神様を祀るところあり、夏に祇園祭をし胡瓜を供える。

この日吉神社の摂社(本社に縁の深い神社)に新宮神社があり、新宮神社は大己貴と少彦名を祀っている。
日吉神社の末社(本社に付属する小さい社)に黄幡社があり、真幡神社とも言う。黄幡社は薬に関係する。更に黄幡社で埴安彦を祭神として祀るところあり、崇神天皇(神武)の時、追討されている埴安彦は、丹波大己貴(陸耳御笠)と協力した少彦名と思えるので、薬に関係する黄幡社は少彦名と関係すると見て良いと思う。
黄幡社は薬にも関係し、新宮神社の少彦名も薬に関係するので、その両者の本社になるこの日吉神社は秦系の薬に関係する人物(少彦名)の神社と見て良いと思われる。
少彦名も河童も背が低く、いたずら好きも似ており、少彦名は祇園祭の胡瓜、河童は胡瓜好きと、どちらも胡瓜に関係してくるから、河童ー少彦名ー祇園祭に関連したと思われる。素戔嗚は更に後世で朝廷の作為により祇園祭の祭神にされたのであって、祇園祭は秦(ユダヤ系)少彦名が祭神と思われる。
河童は私の推測では、治水工事や山津波を抑える人柱で、生贄として捧げた人の霊であり、水神ともされた。河童の容姿は既に概念として伝わっていたので、見えた霊をその容姿に当てはめたのだろう。概念の元は、ヨーロッパか中国か分からないが、例えば生贄にする時、頭髪を丸く剃り、海亀の甲羅か平たい石を背負わせて沈めたかもしれない。
また、人間は、孟子の「外患なければ国亡ぶ」の性格があり、誰か一人を悪者にして団結するところがあり、生贄は秩序を乱す者や、身分の低い者や、敵対する者を使っていたので、該当する者がいない場合、普段から妬まれていた者を悪者にし、生贄にしたと思われる。河童なので、その者の子供を生贄にしたかもしれない。供養塔が無いので生贄にされた子供の霊は供養されることは無かったのだろう。後ろめたきは謝らずが本性だから。もしそうであれば、供養して歴史に残さなければいけない。人間の本性は今も変わっていないのだから。 歴史を消し去ったのであれば、その死を無駄にしていることになり、河童は自分が何者かも分からず彷徨い続けるのだろう。
この日吉神社は小高い山の上にあり、周りは赤土が沢山あり、中腹には20~30cmの玉石もある。たぶん古墳だと思う。古墳の上に河童の神様を祀っているから、生贄にした霊をさらに封じに使っているかもしれない。

 

封じ
神武の兄の三毛入野命は豊後で猿田彦後裔の鬼八を遣り、鬼八の妻の鵜目姫を娶り高千穂へ入る。そして亥の子祭りで鬼八封じをする。
封じとは、祟り封じであり御魂が動けないように封じることです。御魂自身が動けないと思い込む、御魂の周りに障害を置き動けなくするなど、そのような思考で行うまじない呪術です。
催眠術の様に「動けない」、「寒い」、「足が無い」「見えない」など思い込ませることで封じてしまう。宗教にはまって抜け出れないのも思い込みです。封じが解けないように定期的に祭りなどで「叩かれ、切られ、押し込められ」を受けることにより、思い込みが解けず封じが持続する。大きな石が上に載っていると思うだけで動けない。など、思い込みの世界です。思いを替えるだけですぐに抜け出るのですが、催眠を自分で解くことに気づかないのです。

 

徐福

徐福は九州で天御中主(BC660年ころ移入)とされた一族の秦(ヘブライ系)と会い、再び中国へ戻り、始皇帝へ秦(ヘブライ)と会ったことを報告する。 始皇帝も徐福もヘブライ系であり、 どの位の戦力で征服できるか見て来た徐福は、始皇帝に報告し、再度九州に上陸し秦国を建てる。


道祖神

近親相姦を防ぐ為に村境に置き、夜這いをするのは道祖神を越えてからせよの約束と思う。

 

かごめ唄

かごめ かごめ
籠目紋の伊勢や元伊勢の
籠の中の 鶏は
祀られているだけで、人形と変わらない大神たちは
いついつ出やる
いつ復活できるだろうか
夜明けの晩に
大和統一出来たのに、そのすぐ後に
鶴と亀がすべった
今まで築き上げてきた部族たちが騙された
後ろの正面誰
騙して大和を乗っ取ったのは誰(応神天皇)(後ろは神功皇后)

 

籠神社      

籠神社は武振熊王の海部が奉斎する前は忍熊王の祖の系統で丹波大己貴と多紀理姫(結婚して菊理姫と言われる)の系統と思う。

これ以前の豊受大神はクナト系興津姫(大戸比売)であったが、その後多紀理姫(天照大神と猿田彦の子)、その後、武振熊王の海部により宝満の玉依姫が豊受大神となる。(神武の時代の玉依姫とは違う)  

崇神が祟られたとした対象を、匹女として討伐した多紀理姫(菊理姫)と思ったか、それ以前のクナト系の澳津姫(大戸比売)と思ったのだろう、元伊勢まで豊受大神として迎えに行ったのは、この多紀理姫(菊理姫)と澳津姫(大戸比売)を迎えに行ったと思う。

 

宇摩志麻遲命   志麻=揣摩(未知を推量する)
十種神宝(催眠の法具)と深く関係、十種の神宝は母の多紀理姫(猿田彦の家系の秦)から受け継ぐ
男なのにシャーマン気質で争いを嫌い避けるから討たれなかった。戦いが怖いのではなく競い合う人間に絶望していて拘りたくなかった。
神武東征後は、神に仕える祭主であったことを受けて、天皇の為に十種の神宝を用いて鎮魂の法を奉斎していた。それ故に軟禁状態であり、亡くなった宇摩志麻遲は、かねてから石見に葬って欲しいと言っていたので、縁者が石見に葬ったのだろう。鳥は魂を運ぶことから、宇摩志麻遲の魂が鶴に乗って石見に舞い降りたとしたのだろう。
丹波国多紀郡波々伯部は対鶴の紋―物部神社は日負鶴


大祓詞の訳
高天原でイザナギ、イザナミが八百万の神達を集めて話し合い
瓊瓊杵尊に国を平和に治めてくれと、ゆだねられ
荒ぶる先住民に神の威厳をもって言い聞かせ、
高天原から荘厳に降りて来られた
国を統一して、高天原に届くほどの立派な御殿を建て
天の神、日の神の御蔭と、自分だけの力ではないと、
平和に治めていく中で
人が増えてくると、神への無礼、破壊、殺傷、人道の罪など色々出て来たので
神業をして神を封じた首枷を除き、穢れを祓い、祝詞を奏上すれば
天つ神はお出ましになり、また御治めになる
国つ神は山々に籠る悪念を打ち下して御治めになる
罪はなくなり清められた。
級長戸辺も厚い雲を吹き放つ様に、
霧を晴らすように、大船が大海に出る様に
従わない者を草薙剣で討払い、統一したのであって
統一の為、誰でもすることで仕方なく、罪では無いよ
亡くなった御魂は、瀬の神が海まで運び、
鳴門の渦の様な神が呑み込み
根の国の門番が受け入れる
そこには速佐須良比売がいて
そこに長い間居ると、身を寄せるところがなく彷徨い
いつのまにか見当たらなくなる(蒸発して無くなる)
そして罪もなくなる
祓ひ清められ、神の国だと御治めになられた。

 

狸の音真似 

 35年くらい前の渓流釣りの本だったと思いますが、コトトリやカケスが音真似をするように、狸も音真似をするそうです。
山小屋に泊まっていると、ギーコ、ギーコ ドーン と木を切り倒す音を出します。
ドアを叩くので開けてみても誰もおらず、無視していると コンマンワ コンマンワ と言うのです。 こんばんわとは発音できないそうです。
床板を開けて見たら、狸の巣がありました。いたずらをしたら狸汁にして食うぞと言って逃したら、音真似は止んだという内容だったと思います。ネットで本を探すけど見つけられません。
山は不可解な事が多いらしいです。
艮神(こんじん)の行き当たりといって、艮神の移動の場所に居ると、いきなり艮神がぶち当たり、飛ばされて亡くなる。
良く知っている道なのに、何故か間違え迷ってしまう。
食べ物を持っていると、狐に騙され、気が付いたときは食べ物が無くなっている。
実際に亡くなる人がいるので疲れている時は尚更八百万の神を敬う事を忘れてはいけないと思います。「人間は1人では生きていけない」ではなく。いろいろな意識に守られ「1人ではない」のです。 結婚も離婚もいじめも見える相手だけではないのです。 その背景には数えきれない程の意識があるのです。 結婚では神にまで誓ったのです。 人間が恐れるべきは人間と自然と見えないものです。

 

30数億年前からの植物の知能?
脳や目が無いのに、植物が昆虫の興味をひくために、形・色・味質を作っている事を誰も解明できません。
植物は太陽と水と二酸化炭素を使って自らブドウ糖を作っています。冬には凍結しないように糖分を増し、自らを守っています。
植物は窒素から必須アミノ酸を作ります。果実は種が出来るまでは渋く、種が出来ると甘くなり動物に食べてもらう準備をします。
植物は細菌や昆虫に対して、臨機応変に対応を変えて来ています。
植物は紫外線による活性酸素に対抗するビタミンを自ら作ります。
植物や細菌・昆虫は多種に及び、例え一種類絶滅しても、その絶滅原因に対応できる種を作り生き続けて来ました。
30数億年前から、植物は光合成をして酸素を排出し続けています。
酸素が出来た事により、酸素をエネルギーとして活発に移動できる動物が発生しました。
植物が居なければ、移動できる動物も発生出来ませんでした。
どれも人間には出来ない事ばかりです。
植物から見れば人間は植物の恩恵から発生した生物です。
小麦・野菜などは、その人間によって、世界中に生息域を広げました。
脳や目が無いハンマーオーキッドが蜂のメスそっくりに花を作り、メスのフェロモンそっくりの臭いを出すのは何故でしょうか?
蜂の生態を理解して、メスの形・色を認識しないと出来ない事です。
パッションフラワーは葉に黄色い斑点を付けて、蝶に卵を産む場所が無いと思わせます。
ゴジアオイは耐火性の種を撒いた後、揮発性の高い物質を分泌して、自然発火して自分と周りの植物を焼きはらいます。
植物には、人間の脳では理解出来ない、違う知能があるように思えてきます。
今年の3月にそのような認識が出来る夢を見ました。
山の麓に竹林と畑が隣接していて、百坪位の畑に直系4cm位の竹の根が上下左右絡み広がり、地表から地下90cmまで波打つように伸びていました。
竹林との境界が30m位有り、その長さを深さ1m堀り、竹の根をすべて切り、百坪位の畑の根を掘り起こし始めた2日目の夜の夢の事。
山の全ての樹々が、幹を左右に振り、大笑いしていました。
すべて掘り起こすのに10日掛かり、スコップが竹の根に当たる衝撃は、肘に4か月痛みが残りました。最後に1mの深さすべて波板で遮断しました。
笑われるなど、夢にも思っていなかったのに、夢で木に笑われました。
樹々の意識を夢という媒体で感じたのだろうと思えてきます。
目は無くても見え、脳は無くても無理だと判断でき、笑える感情があると思えました。
植物の知能を解明せずに、批判は出来ないと思います。
遺伝情報を写し取っただけでは説明できません。
人間は植物や、動物から必要な物質を取り、病気には薬を使い、使い続けると薬の効力も無くなります。有害物質に耐性を持つのではなく、薬に耐性を持つようになります。
植物から見れば慌てふためいている様に見えるかもしれません。
長寿の地域は医療が発達している所とは限りません。
10万年の人間が30数億年の植物を解明することは不可能なのかも知れません。
ふびんな人間の面白さを植物が理解することも不可能かも知れない。

 

いただきます
「いただきます」は、生命を奪って食べる事を魂に詫びて感謝をし、魂がその気持ちを受けてあの世に行けるようになぐさめ、あの世に導く思いが籠る言葉。

 

對食(たいじき)の言葉
一粒のお米も一滴の水も皆戴いたものであります。自然の恵みにあらずして、どうしてこの食事を得ることができませう。慎んで、味の良し悪しを思ふてはなりません。これは我が身を養ふ薬と思へば飢と渇(かつ)とを凌ぐ(しのぐ)だけで十分であります。もし、不足の思ひをなさば、そは恐ろしき我が身の攻め道具となります。食事の時はいつもこの思ひを致しませう。願くばこの食事の力を以て、永く我が身を養ひ、上(かみ)は御佛(みほとけ)の救ひをあほぎ、下(しも)は世を渡る人たちの船となりて、共に倶(ごも)に、平安の生活に入らんことを。

 

地球の周りは青み掛かっていて、神はいなかった
古代の人と現代の人の行動の思考はすなわち脳は進化していないと思います。 動物の種類でいくら教育しても限界がある様に、人間(猿人)の脳も限界があり、進化できないと思います。経験を活かして技術を進歩させる部分は秀でていますが、思考の本能は進化していないと思います。 だから歴史はくりかえし戦争が無くならない。状況に拠り理由が理不尽という性質になるのは、人間脳の限界であると歴史が証明している。富裕層や国境や公務員の意味が無くなるほど科学が進歩したら、脳は変わらないけれど戦争はなくなるかもしれない。
古代では地震、雷を見て神を確認し、神の御意志を察して、生贄もしてみましたが、災害も食料も思うようになりません。巫女に神の御意志を尋ねると、先祖霊が先祖霊の認識の範囲内で助言してくれました。その助言が神の言葉となりました。そして魔女(巫女)狩りもしました。
現代では、地震や雷の畏れが高次元に替わりました。自分を崇高に崇めすぎた為に、高次元へ救いを求め、動物として自力で生きようとしないのです。古代は生贄をして神に救いを求め、現代は自虐をして自分は良識ある人間だと、人を落とし、救いを求めるのです。

安易に神霊に頼り、自分の想いを満足させようとしますが、神霊は本当の事も教えてくれますが、神霊に都合の良い様に導きます。神霊には親身な者も適当な者も意地悪な者もいます。しかも、嘘を教えられた神霊は、その嘘を事実だと思い込んでいます。取り返しのつかない事をして引くに引けない神霊はたくさん居ます。人の口を借りる神霊はほとんどが自意識過剰ですから内容を操作します。
神霊の波長を欲しがり、神霊から教えてもらい、飛び級していると、知識は大学生だけど、魂は子供のままになってしまいます。そして神霊の波長を受取れなくなると、ずっと神霊を探し続けるようになります。
神霊も人間も大したことはありません。神霊だって解らないことだらけなのです。   ガガーリンが宇宙へ行った1961年までに地球は青いと言った神霊はいないでしょ。小さい国でも歴史が長いと神霊が多いのです。大きい国でも見捨てられるような事をすれば、神霊は少ないのです。 その意識が風土となりその地方の民の性格となるのです。

皆が思っているような平等な神はいません。しかしそれぞれに見守ってくれる神霊がいます。
それは先祖だったり、縁の有った人であったり、動物であったり、助けた人の神霊であったり、神霊と言っても黄門様のような人だったり、八兵衛のような人だったり、強い人だったり、弱い人だったり、平等ではありません。

人は霊界の知識が豊富になり、自分は特別であると勘違いします。
人は神霊に頼る事で、魂の判断力、成長が止まります。
神霊に頼らず、信念を持って判断し、個人を確立する事で、集団になっても誤った方向へ流される事無く、集団が良いと思った方向へ進むのです。

封建社会から突然民主主義に変り、個人の責任と覚悟を自覚する事無く、自由と平等と権利を手に入れたものだから、自分達で意識改革して作っていったものでないから、飛び級したから、大人に成らないまま、各々の幸せを追い求める、自分達だけ幸せに居“続ける”事は、人間には不可能なのです。
幸せとは、皆が共通の秩序を持っている事です。秩序は押しつけられるものではありませんが、自由ではないのです。
それを踏まえた上で自由があるのです。

しかし、共通の秩序の前に共通の認識という問題があります。
一番大きな認識の違いは、神と親と子だと思います。
親がいなかったら自分はいない、というのはもっともらしい道理に思えますが、
神がいなかったら人間はいない、神は唯一であり、全知全能である。と同じ思考だと思います。
8歳の子供が、母親から「あの辺に住んでいる人たちは卑しいのだと、母の里に聞けば皆判る」と聞かされ。その時思ったのは、「たまたまこの体に入ったが、その地区の同い年の体に入ったかもしれない」と思い、この人は間違っていると8歳の子供は思いました。 この場合、親より子の方が、魂では遙かに年上なのです。
肉体ですら遺伝子は代々受け継ぎ、二親が新しく作ったものではありません。縁を決めるのは霊界の事情であり、子が親を選ぶと言うのは、「この二人の内どちらにするか、どこの家系にするか、どこの地区にするか」のようなことで、親にへりくだるような事情ではありません。
ましてや、魂は親の魂の下に位置するものではありません。
不具の体は肉体が不具であって、魂は不具ではありません。「知的障害の体があなた自身だ」というのか、「知的障害の体であるけれど、その中のあなたの魂があなた自身であり、あなたを見ることができない」といえるのではないか、不具の体は親からきているものであり、魂は本人自身の経験であり親や地域や法律の下位に位置するものではない。
しかし、仏教では親がいなければ子供はこの世に出て来られないという思想を植え付けた為、つい100年前まで、親が子供をどうしようと親の勝手という道理でした。
親は子を預かったのであって、授かったのでも発生させたのでもありません。魂を預かったのです。しかし日本の世間は、親を嫌う者を無条件に異常者だと認識します。親は子を殺さない限り、外面さえ良くしていれば何をしても疑われないのです。「親に成って初めて得た権威」という誇大妄想を誰も失いたくないから、「親が尊い」が絶対なのです。 世間が本質を正しく見なければ、子供は世間に絶望します。子供の絶望は親だけでなく、世間にも責任があるのです。「育てるのは難しい」とか「親は正しい」とか、ちぐはぐな事を言っている事さえ気づく事が出来ないのに、親になれば「立派と権威」を得たと思い込むのです。その自分の既得権を有効にするために、全ての親に「立派と権威」を認めて、本質も無いのに、経験を誤認し正常ではないのに、有能な子供の上に立つのです。本質が空っぽなのにも気付かないのです。本質は「親だから」しか言えないのです。本人は親の言う通りにはしなかったのに、自分が親に成れば「親だから立派」と思うのです。 預かった魂が何万年というリレー途中の先導を間違わないように、人間の現実を教え導くことが親の責任なのです。野生動物でも親は子に正確に現実を教えるのです。現実を知らずに理想を教えるようなことはしません。
欧米人も同じように自分本位の道理を考えます。 
野生イルカは水族館に入れてはいけないけれど、育てたイルカは自由を束縛しても良い。
このような認識が形を変えて繰り返していることすら気付かないのだから、歴史は繰り返します。
詰まる所の本音を突かれると、大勢で槍玉に挙げて排除するので、聞こえの良い事を言う者が主導するという社会を繰り返し続けて来たから、常識が変わってしまったのです。数種類の集団の利に成る様に常識が枝分かれしたのです。傲慢な枝が勝ち増え、謙虚な枝はその木からは二度と生えません。傲慢な枝は重くて倒れます。それでも、倒れてもいつかきっと救われると思っているのです。自分が正義だと思っているから。
たぶん神と親と子の関係の共通の認識を持つという事が、一番初めだと思います。
私は15歳の時に両親に「私はあなた達から技術的な事は学ぶ事はあるけれど、精神的な事は学ぶ事が一切ない」と伝えました。
私は15歳の頃からずっと、尊敬できる人を探し続けています。幼稚園児からも学ぼうとしています。
普通に来島ドックの坪内寿夫さん、中きく曽野綾子さん、大きく開高健さん
開高さんが亡くなった時は、今までで最大の悲しみ、最大の失望でした。
「全知全能の神とは知恵の悲しみですな」と開高さんなら言うと思います。

 

昭和二十年七月十日 874名が乗船したまま轟沈された望月丸(875t)

朝鮮の陸軍航空部隊向け補充要員として、874名が
七月九日、博多千代国民学校に泊後
七月十日十八時前後、博多港を対馬―釜山に向けて出港後、消息不明になりました。
米軍の望月丸撃沈記録について
「望月丸は昭和二十年七月十二日東経一三〇度二二分北緯三三度三八分に於いて不明飛行機に依り撃沈さる」
右は望月丸沈没に関する唯一の確認と見られる資料であるが、撃沈位置が旧日本海軍の海図では博多灣頭西戸崎の近くに標定され此の点尚稍疑問の点があったので再照会したが之以上の資料は無いことが確認された。


望月丸が船長以下全員及乗船していた本補充要員の全員が全然生存者なく、對馬附近は勿論裏日本一帯に亘る漂着遺体も皆無である状況から見て望月丸は完全に轟沈したのではないかと判断される。
以上の如く望月丸の沈没については米軍記録以外に確認がなく細部の予測は困難であるが、当時の状況から推察して十日沈没と判定した方が最も真実に近いのではないかと考えられる。

長崎沖で潜水艦イー402は発見されましたが、博多沖の望月丸と874名はまだ発見されていません。
皆二十歳前後の若者ばかりです。何故探さなかったのだろうか。

 

神とは
人間が創った【眩しくて見ることのできない計り知れない神】
人間は守られる知恵があるから【神】に頼り、自ら支配される事を求め、保護を求める。
【神】が宇宙の創始者で、救われる者と、見捨てられる者がいるという。過去にもそういう事があったという。
その境界は何なのか、【神】から直接聞いた者はいない。「神を信じない者なんか罰が当たればいい」と思う思考が、その計り知れない境界なのです。
あなたの大切な人が【神】に背いたら、あなたは大切な人を見捨てるのか。あなたが見捨てないのならば、見捨てる【神】はなんと処置の疎かな事か。如何なる者にも先祖がいて気がかりで心を痛めているのです。
そもそも「【神】の使いとして」【神】という概念を使って階級社会を構成したことが、【神】を私用したのではないか。
現実は宗教も社会も階級があり、植民地では教育を受けさせず、イルカは守るが民族虐殺・圧迫は見捨て、他を責める快感を正義にして金を出し合いゲームを楽しむ。【神】に背く行為をしておいて、「私たちの罪をお許し下さい」と言って【皆が思う神】を利用するのです。 
現実は人間脳が創った【神】は作用せず、「勝てば正義、負ければ不正」である。
しかし、何故作用しない【神】を信じるのか、それは人が先祖霊の意識を察知できるからです。
実際、人は霊から影響を受けていますが、【神】ではなく、各々に縁のある霊から影響を受けています。その霊の影響を【神】と思っています。
又、ほとんどの霊が【神】や【宗教】を信じたまま霊界にいっていますから、それらが創った霊界ですから幾多の集団に分かれています。その霊達が人間に、上から目線で教えてきます。
元は雷や地震が神だと思っていた霊達が創った霊界から、正義として言ってくるのです。
霊界は一つにまとまっていなくて、分かれているのに、霊界では何故か未来が見えるし、人間の考えている事がそのまま解るので、自分たちは偉いと勘違いしているのです。
人間の経験によって霊界が進歩していることに気付かないのです。
ほとんどの霊は「自分が正しい」ので他の道が見えないのです。
このような各々の霊が、守護霊として、悪霊として、【神】として人間に作用するのです。
現世の善意も悪意も霊界では《さとられ》のように見えています。
現世の人間でも《さとられ》のように解る人が、現実に多くいます。
このような人を、昔は【神】と言い、今は【神様みたい】と言います。 しかし正義の判断が十神霊十色違います。

 

宗教とは
釈尊は、神がいるのに身分や戦争がある事を疑問に思い、この世の秩序である神の御意志を悟ろうと、山に籠りましたが、真理を会得できないのは煩悩があるからだと思い、【欲を捨て無に成ろう】としましたが、会得できませんでした。そのうち、動物や自然は置かれた環境の中で努力して生き、死んでいることに気付き、人間だけが特別ではない事に気付きました。
俗世から離れて修行すれば、嫌な思いに関わらなくて済み、俗世から逃げていた事に気付きました。人間の本分とは、修行ではなく、俗世の中で悩み苦しみ、和合を求め努力することにあると悟り、山を降り、人々に伝えましたが、苦しい人々には理解できず、弟子たちは凡庸では満足できず、人から敬われる為に、【欲を捨て無になる】事が人間の本分だとあざむき、俗世を離れ修行の道に入りました。
早く敬われたいので、弟子たちが新しい神の理屈を考え、民を掌握できたので想像が本当になりました。しかし、神も人も敬われると成長が止まります。
宗教のするべきことは、神の偉大さを解くのではなく、人の終焉を多く見聞きしているので、人生の一つの相談として、心の清めとして、人各々に助言できる情報を説く事にある。

共産主義と宗教は似ている。どちらも理想に思えるが、生身の人間でやると崩壊する。そこには全知全能の神の裁可が必要だからです。

 

神社と寺と教会
神社では祟りを恐れた民は自然を奉るのと同様に社を建て祀り、祟り神に許しを乞うた。
寺では仏が祟り神を救い、仏に許しを乞うた。
教会では正義の名の下に許しを乞うた。


人とは
「神様がそんな事を言うわけがない」と、神でさえ、人間の思考範囲を超える事は出来ない。

戦争や病気が無くなると神は要らない。

 

人間は自分に都合の良い様に判断するが、 あえてその逆に自分に都合の悪いように判断することで、 自分は見識ある判断が出来ると自己陶酔して完結している気になり、 そこには責任を取るのは自分ではないという卑怯な根底があるのに、 あたかも有識者の顔をして居座っており、 紛争の種を撒くことで自分の価値を認めてとねだっている。 詰まる所、人を威圧するのと同じ次元です。

 

自分の思考範囲内でしか認識できないのに、 思考範囲を超えたものでも自分の思考範囲内に収めてしまい、 誤解していることに気づかない。 世間の狭い者ほど人を裁き、世間の広い者ほどその地域を出る。


「自分を客観的に見る」と言いますが、人それぞれ自分の知識に変換して出しも、受け取りもするので、自分に客観的思考があると思っても、人からは異なって見える。

世間が狭い人は、全てを知っているつもりになり、世間が広い人は、多くを知りたいと思う。
世間が狭い民族は、民主主義が神に成り、皆が協力して決め、皆が同じように分担して、皆が遂行する事が出来ず、間違っていても間違いを認める事が出来ず、時間を浪費する協力社会で責任が薄く、世間が広い民族は、個々の責任の上に社会がある。

人間は知恵があるから皆狡い、狡くない人は、よこしまな行為の邪魔になるので、陥れられる。

必ず気の合わない人がいる筈なのに、皆から「良い人」と思われている人は、平気で嘘の吐ける人で、その裏では自意識が異常に高い、その代償を皆から搾取しているから演じ続けられる。背くと見えない復讐が始まる。


他部族に成りすまし(嘘を吐き)、悪事(陥れ)を働く者は、 疑われないので、弱く見えても性根が強気であり、強気(長けている)だから平気で嘘が吐ける。


怒ると叱るでは違うと言う思考自体が、上っ面思考なので、叱る資格も無い。

人の脳は自分を拒否できないので、失敗は認めるが、今の自分が悪いと思っている人はいない。
自分が悪いと言う人は、自分の罪を隠し、更に対象を陥れようとている。

悪人は、「許す事が崇高だ」と、人が思っているのを知っているから、許す人を見下している。何度も許されることを知っている。


全ての人が金持ちには成れない、全ての人が泥棒にはなれない。


品行の悪い人は、本当は優しいというが、毒を持つ昆虫が毒々しい警告色をしているのに似ていて、一歩譲って接しないと牙を剥くのです。「三つ子の魂百まで」は、それは性根だから一生変わらないと言っている。 しかし、教育を受けているから、知らず知らず自責の念に駆られるので、特別優しくする時がないと、自分の正当性を保てない。 人は変われるのではなく、黒の上に白を塗っているから気に食わぬと黒が出る。何度も何度も何度も許しても、自分の意に合わなかったそれだけで強要してくる。

男は尻尾を振って出ていき、女は怨念を残して出ていく。

男は子供を自分の分身と思い、女は子供を自分の物と思う。

女は勘が鋭いのではなく、疑い深く、自分の考えが正しいから、いつも疑っている時、当たった時の記憶だけをもって、勘が鋭いと自負している。間違った記憶は消えるのか?、間違った事を認識出来ないのだろうか?、だから、嫁姑問題は無くならない。勘違いの方が圧倒的に多い。

男は本当は、働きたくない、責任を持ちたくない、自由で居たい。
女は知恵があるから男に守らせ、男は仕方なく容認した。「男はつらいよ」なのに最近は女もそのつらさを求める。

敬われたいと思い始めたら、万人を意識するので、既に魅力も必要性も消えている。敬われれば成長は止まる。

戦国時代も現代もどちらに付くかで勝敗が決まるということがありますが、勝とうと負けようと、10年20年で状況は想像もできない程変わるのだから、明日は解らないのだから、失敗を覚悟して自分の意とする方へ付くのが良い。 自分の意に反する経験を選んでしまい経験が自分の物にならないのが大変勿体無い。 意に反すれば社会もいびつな方へ偏っていく。 子供の頃に、あんな大人には成りたくないと思ったではないですか。それは何も知らない子供だからではないのです。それが正しい事だから、損得を考えない子供には判断出来たのです。 自分と後の世代を思うなら、大勢に流されず、自分の信念の変化を確認できながら積み重ねる事が、本当の自分を見つける事になる。

 

人は集団になると自分の本意が言えない為、皆の思考とは違う方向へ集団が流されます
戦前は戦争を扇動した報道が、戦後責任追及の恐怖から真反対に替わるのと同じ様に、皆も替り兵隊をなじりました。自国の為に死を覚悟して戦った人をなじる精神は、幼児が大人を裁いているように見えます。 贅沢をせず、耐えて来た兵隊さんや御両親の悲しみの犠牲の上に、今の日本やアジアがあるのに、現実を知らず、現実を教えず、理想を教えることしか出来ない人たちは、世界を良い方向に導く一員に成れるでしょうか。話し合いで解決できるでしょうか。

報道出来る自分を上位に置き、報道を大そうに考えるから作為が生じるのです。
記者の文才の誇示と、上司の意に添う作文になり、報道が偏向する。
現在、権威はどうかすると、少数の意見に傾く傾向がある。多数の意見を報道しても大そうにならないからです。事実を伝えるという報道が偏向し本質を換えてしまう。信念を持って自分を確立出来ていないから、他者を排斥することでしか満足感を得られないのです。
この少数の知識人は社会の為と主張するが、社会を誤認している人達の意見を集めて自分の権威を作り、他者を威圧することに満足を覚える威圧脳の知識人です。過去の歴史から反社会的な運動が正義に感じる思考を覚えた人達です。権威を手に入れるには異端を主張すれば簡単に得やすい。
誤認を解いて本質を解くのであれば、自分の手柄にならないからです
このような人達は、報道や政治家、有識者、先生、良い人、等自分の地位を守りたいと思う自意識の過剰な人に多い。不特定多数の人に自分を敬わせ、権力者を威圧する事が目的であり、論理的に妥当性を考えている訳ではない。
有利に思える方へ集まる人々は、内なる自分の尊厳を確認できない為に、他者を排斥する事で自分の価値を自慢しているのです。 他者に認められるまで不満が消えず、再び外へ自分を認めてくれる対象を探し続けるのです。 外へ探し求めるのではなく、自分で自分を導こうとしないかぎり、誰も認めてはくれないのです。 自分より少し離れた人が認めてくれるのです。 ほんの少しの人が認めてくれるのです。 人間は大した事ないのです。大した事ないのに浅知恵だけ働くのです。 現代の人口が増え過ぎ満ち足りた人間の脳では幼年期を出る事が出来ない。 全てにおいて、人数や物質にしても数値が増えれば諸事情の負荷が働き限界を超え自滅するのです。

 

「何を言ったかではなく、何を言わなかったかが重要」と言うと聞こえが良いですが、「本当の事は言えない」というのが本意です。日本では「見ざる聞かざる言わざる」本当のことはタブーなのです。日本の報道もです。国民が自律していないからです。
「親睦が大切」と言って、集会を嫌う人の気持ちは関係なく、強制的に人を集めますが、「親睦が大事」と言う人の中には家族ではなく、外に何か良い事を求める為に、飲食や話をする事が好きな人がいるのです。家族との時間が惜しくて集まりたくない人の気持ちは間違っていると裁いているのです。
集会を拒否したり、意に添わない本当の事を言うと、親睦を唱える人が村八部を扇動するのです。

 

本当の自分とは
人が神に祈る心は、万物の何よりも美しいかもしれません。
叫びたいほどの心を抑え、心を思い及ぶ限界まで、果てしなく遠くへ飛ばし、祈るのです。
その心は何と繋がるのでしょうか、 繋がっているのだけど、どうにもならないのでしょうか。
たぶん人間が生まれた時からの記憶の焦点に繋がっている様に感じます。
皆が祈ってきた、耐えてきた記憶があるので、 その同じ波長の枝に繋がった時、意味も無くほんの少し安心するのです。
その繋がりで、ほんの少し心に何かを得るのです。 その枝の記憶が神(自分)なのです。
神(自分)とは、自分と志を同じくする魂の繋がり全てが、神(自分)なのです。
だから決して志を偽ってはいけません。
志を偽ると、魂の繋がりが分らなくなり、自分の立場が分からなくなるのです。

I Vow to Thee My Country
I vow to thee, my country, all earthly things above,
神様、私はこの世の何よりも深く祖国に誓います
Entire and whole and perfect, the service of my love.
祖国を思う心に、さえぎるものは何もありません
The love that asks no question, the love that stands the test,
その心にかげりは無く、苦難にも負けません
That lays upon the altar the dearest and the best.
私の全てを懸けてあなたを守ります
The love that never falters, the love that pays the price,
どんな犠牲を払っても、心が揺らぐことは有りません
The love that makes undaunted the final sacrifice.
最後を迎えようと、怖くありません
.
And there's another country, I've heard of long ago,
聞き及ぶ、魂の故郷がある
Most dear to them that love her, most great to them that know.
それは、いつくしみに溢れ、この上もなく光栄なところ
We may not count her armies, we may not see her King.
そこには戦いは無く、国も無い
Her fortress is a faithful heart, her pride is suffering.
信頼のおける心が、確かなことで、自尊心は苦難となる
And soul by soul and silently her shining bounds increase,
集まる魂は、安らかに光り、輝きを増していく
And her ways are ways of gentleness, and all her paths are peace.
その意志は優しさに溢れ、その道は安心に包まれ

 

人格
今が重要ではない、なぜその道に入ったかが重要であり、成す者と成さない者との違いは、その道に入った思慮によって、道は初めから別れている。成す者はいずれ成す。それはその道に入る時点の思慮に成す力があるからです。成さぬ者は思慮が体裁にあり、体裁を繕う事に流れるからです、もしその体裁の思慮が見えるとしたら、毛が三本だけはえている様な物だ。

 

方便
方便は言う方側の認識であって、受け取る側に方便をもって対峙するのは失礼であり、受取る側の人生の責任を取る事は出来ない。事実から解決することを失うことになる。 狭い世界に縛られ外界を知ろうともしなくなる。 迷い彷徨うことになった根元も見失うことになる。
「方便と大人の対応」という二つの不確定を使って、「空想を一般常識」にし、進歩の芽が枯れた魂の年輪を重ねる。

正義
正しい事を言う者は勝ったためしがない。なぜなら歴史が曲げられているのが証拠です。

 

天国と地獄
自殺をするのは、他の意識に自分の魂が乗っ取られている状態に近いと思います。知恵があるから、心が疲れていたり、気力と体力が消耗して跳ね返す力がない時に、自分では憑依されている事に気づかず、自分の意志で熟考しているつもりですが、既に他の波長に浸食されていて自殺してしまう。 だから自分が本来行くべき霊界の波長と合わず彷徨う事に成るのだと思います。気力のない魂の波長を戻すのは大変だと思います。 
他には、自分が正しいと思い込んでいた人はそのような波長の場所に、 見下されたくないから他を威圧していた人はそのような波長の場所に、 嘘を吐いていた人はそのような波長の場所に、 ごみを捨てていた人はそのような波長の場所に拘引されるのです。 それを天国とか地獄とか言っているのです。
一つの宗教にも何派と分れていますから、その霊界は派閥を作った人とそれを信じた人の波長の霊界であって、基になった神は波長が違うからそこには居ません。派閥の霊界では「神は眩しくて見る事が出来ない」と欺かれます。 基になった神は「私を敬え」「意識を私に合わせなさい」「私を祈れ」というような波長ではありません。 「人が人を裁くには過ちがある、人間は万物の一部であり長ではない、人間は大した存在ではない」という波長だから派閥の霊界には存在できません。植物や動物の様に自力で生きようとせず、神に頼り、神の為に人生を費やす人は、何かにしがみつく人の様な波長の場所に繋がるのです。そこには偉大な指導者は波長が違うから存在できず、指導者の言葉を利用した弁の立つ者の波長の場所です。 言葉と音楽も物体も波長だから大切です。波長は違う波長とは繋がりません。霊界では波長は外面ではなくて内面だから誤魔化しができず、同じ波長に拘引されます。

 


人間には、それぞれ細胞が再生されにくい時期があると思います。
例えば、50歳前、70歳前など。
細胞が再生されにくい時期に、悪い細胞を消す薬等、体に入れると、細胞が活発に再生され始める時期が遅れるのではないでしょうか。
その時期を過ぎると、再び再生が活発に始まり、不良な細胞も消えるのではないでしょうか。
長寿の地域は、医療が発達している所でしょうか。
細胞の再生が活発になる何かを、得ている人ではないでしょうか。
それは、水であったり、蛋白質であったり、喜びであったり、音楽であったり、悲しみであったり、人それぞれの人生により違うと思います。 

 

宇宙人がいるとしたら

我々が人間の為に居ると勘違いしているぞ、他の動物の方が余程頭が良い。

人間は動物の中で一番性質が荒く見栄があり、欲が強く、自我が強く、自尊心が強いから、扱いやすく、洗脳するのに丁度よい知能をしている。
行けば人間は自ら捕獲されに来るから、これ程捕り易い動物はいない。
人間の霊界が質量を持つことを気付き始めたので、その質量が人間の未知のエネルギーだと気付けば、霊界が集まれば脅威になるかもしれない。

ブラックホール

ブラックホールは吸い込まれて何処か(ホワイトホール)と繋がっているのではないと思います。光は重力で曲がるのだから、球体を見て鉛直の部分は光が交差し合って、 高温域で反発し合って見えなくなるのではないかと思います。側面の観測ができていないから。だから、そこには大きな球体があって、異次元に行くのではなく、ぶつかって終り、球体が少し大きくなる。球体が大きくなりすぎると、自滅する。UFOがいるとしたら、UFOは球体でないと隠れられない。


ダークマターとダークエネルギー

ビックバンの中心と各銀河の間はダークマターが無く、銀河の中心と太陽系の間はダークマターがあるのであれば、高い温度帯(電磁波と粒子)の周りの低い温度帯の層が均一になろうとするなら、ダークマターは高い温度帯、ダークエネルギーは低い温度帯 と思う。

 

スピリチュアル
一つの事象も知性に拠り認識が違い、善悪、正義不正の判断が神霊それぞれ違います。 認識が違うだけではなく、自分の間違いを消すために嘘を言います。自分の正当性を主張する為に他者を陥れます、言い訳をします、又人では分かりえない事実も教えます。 詰まる所自分の保身の為か尊敬してもらう為に接触してくるような神霊は、自分の意の方向へ傾くように導きます。そのような神霊に背くと問題が生じ、再度敬う様に導きます。そのような神霊は自分を正当化する言葉を探せば探す程相手が憎く成ります。 ものごとは傲慢な者の方へ事が進まないと解決しないのです。だから神霊に憑依されている人に、守護霊などは接触して来れないのです、意識が違うから接触できないのです。接触した端から邪魔が入り以前より悪くなるからです。
神霊の言葉を信じ、自分の思考を失った事にも気づかず、この世にいる生身の自分を自尊心の高い神霊の為に費やす事は、どちらの為にもなりません。ひどい場合は安易な解決法として罪を負う形代(傀儡クグツ)として利用されます。 鷽(ウソ)が本当になるのです。  神を信じる者程、神霊の言葉に背くという思考はありません。 皆自分が正義だと思っているから自分の意を失ってまで他の正義を妄信するべきではありません。

 

カリスマ性
人は不確実な「信じる」という知能があるから、物事を複雑にして威光(カリスマ性)を放ち、その権威に連なって一本道を永遠に右往左往しがちです。 宗教にしろ、物理や医学、歴史にしろ、解っていないから複雑に表現することがボスになれる資質のようです。 平たく表現できるのに簡単に言うとお金(権威)が集まらないのです。平たく表現する者を稚拙として見向わないようにするのです。 職人の世界では「見て覚えろ」と言いますが、これは逆で表現できないのです。親方は、こうすれば上手く行くと分かっているのですが、何故うまく行くのか説明できないのです。だから見て分からない者に教えても上手くはならないのです。科学を超えて上手くやっているのです。
物事を平に表現したら、カリスマがなくなり、多くの人が教育を受けられ、その分野が進歩し、格差が小さくなり、新しい道が枝のように増えるかもしれません。 又は経済が縮小するかもしれません。今が膨らませ過ぎているのです。

 

資本主義の神の見えざる手
資本主義では、個人の労働力より過大に付加された商品を買う事になるので、商品を手に入れる時、平均的な労働者は自分の労働力より多く支払わなければならない。それは不可能なので自分の労働力より小さい生活をしなければならない。
労働力に付加された商品を売る事が出来る労働者は、自分の労働力より高く商品を売る事が出来れば、付加された商品を買っても余裕が出来るから、自分の労働力より大きい生活が出来る。
この格差は、時間が経つ程少しずつ開くので、このシステムでは格差は必ず大きくなる。
しかし、生産と消費を支えている土台は平均的労働者だから、ある程度格差が出来ると、経済が停滞してしまう。平均的労働者に余裕が出来なければ、付加された商品を売る事が出来る労働者は、自分の労働力より高く商品を売る事が出来ず、マイナスの生活を送る事になるから、政策など策略が必要になる。政策は自由競争に影を作る。策略は自由競争の道理を外れてしまう。
修正できる部分は、投資された部分と、公務部分であり、社会保障を充実させると個人の支払率が多くなるから、平均的労働者はさらに自分の労働力より小さい生活をしなければならない。
資本主義の見えざる手とは、支払率(付加された商品)が大きい程経済が膨らみ、大き過ぎると経済が縮小するので、支払率を下げることが経済の回復に繋がり、人としての社会のシステムに近づける。

 

年貢を与えているのに
権力者は皆から税金を集め、皆の為に税金を使って施しをする。 言い換えれば、 権力者(執事)は皆(主人)からお金を預かり主人の為に必要な仕事をする。 立場もすべき事も逆にあることさえ気づかない。 悪しからず! ・・・

 

個性
人は一人一人みな違うが人間の価値観、行動は、環境や教育により大まかに何種類かに分類できるのだから個性という言葉に気を取られず、何タイプの目立つ人というだけである。個性とは年輪の様に積み重ねた信念に表れる。
「地に足を着けた」信念だから何物にも穢されない個性を持つのです。

運命
人はそれぞれ器量(運命)を持って生まれている。器量は他から決められた者もいれば、自分で決めて出た者もいる。大まかな運命が映像で見えるそうですが、全くその通りになっている人と、その通りではないがその辺りを通る人がいる。それは多分、守ってくれる者と邪魔をする者とで左右する。
幸せになると不安を覚えるのは邪魔をする者が多くなるのを知っているからです。
器量は過分も過少もあるので、器量で本人の価値は計れない。
器量は織り込まれた道の様なもので、轍を踏むごとに違う道が織り込まれる。
轍を踏むことを避ける事は必要ですがその轍が何か解って踏む者はいない。
轍を踏むことを避ける為に信念(魂)を殺して無難な道を選ぶから、意識は外に向き他を責め刺激を欲しがる。
器量は魂の成長の為に人それぞれ違うのだから、信念を殺して生きていたら外面だけ綺麗なのだから、自分は勇気があると自負していても、永久に脅え続ける魂であり、動物より尊厳がなく不幸である


高次元
高次元を求めるから、良識と知性という言葉がクサビとなって、悪を正す事ができない。
 人を憎まず許せ (次は他の人が犠牲になる)
 乗り越えられる試練 (悪を特定しない)
 人は皆神の子、根から悪い者はいない (悪に権利を与え)
 そうすれば、正直者が働き、悪が得をする、と歴史が繰り返し証明している。
 その反対に、全人類が悪からの利得を拒否すれば、その方面での神はいらない。

 

何故、人は人を殺してはいけないのか

それは、人間社会は人権を約束して、弱肉強食をを止めたからです。人間は知恵と武器を使うから、休まる時がないからです。そのルールが無ければ、各人がより強い武器を持つようになり絶滅するからです。約束があるから武器を持たないのに、現実は武力や財力で勝てば支配が許されます。 自分を守るのはルールなのです。 財力で負けても、食べていけないのです。世界では5000年前から、日本では2300年前から勝者が生き残り、敗者が途絶えて来ました。それは、風土となり、常識となって、誰も異常に気付きません。敗者は知能が低くて負けたのではありません。戦う意思が少なくて、武器が弱くて負けたのです。人間は勝者が先導して、戦いに意欲的でない者が途絶え続けて来ましたから、現在の人間はどんな形にせよ勝ち残った者達なのです。相手が困っても勝てば良いという、欲が勝った者達なのです。 弱肉強食を早くに止めて、ルールを守り続けていれば、途絶えた人達が大部分を占める社会になっていたと思います。知能が低くて負けたのではありませんから、互いに尊厳を敬う社会が出来ていたと思います。弱肉強食では、強い武器を作り続けなければいけません。財力に屈服しないといけません。 人間は力による支配は受けない約束のはずなのに、勝てば支配が許されるから、戦争は無くならない。


幸せ
秩序に守られた社会があるのに更に守護を求めるのは、あまりにも平和を軽く見すぎており、他の犠牲の上に自分たちが居る事実を認識できていない。 本質を見通す事も出来ないのに要求だけすることが許されているから、許しているから、人に迷惑をかけても平気な人間が増えている。 このような状況で幸せを求めるのはいかにも傲慢であり歴史から見捨てられ汚塵しか残らない。 幸せを求めたいのならば嘘を吐くなど自分を穢さず、好かれることから始まり、仕返しをせず(かといって助けもせず)意識を悪意に合わさないことです。「人生は一度きり」ではなく、数万年前からのリレーの途中なのです。失敗は死んでも直らないのです、誰も自分と他人の人生の責任を取る事はできません。しつけのされていない犬は他に危害を加えるのです。野生では許されないのです。危害を加えた事は感情の借金に成ります。借金の返済を要求すれば相手側からも逆恨みされ借金を負うのです。逆恨みでも感情の借金を受けるのです。感情の借金は2千年も続くのです。中途な知性だからこそ、たとえ理不尽でも感情の借金は消えないのです。推し量り、差し控えることが日常に無ければ、野生も絶滅します。目先の見える事ばかり気にかけていれば自分を見失います。老人になり何をしていいか分からなくなり、外見ではなく「年の功の魅力」のない老人に成るのではないでしょうか。老人になっても話をしたいと慕われる人格になることが、リレー途中の本質であり、本質であるから幸せなのではないでしょうか。たとえ周りに慕ってくれる人がいなくても、本質であるなら一人ではないと分かるのではないでしょうか。

幸せの本質
価値観が同じ中で生きることが幸せなのですが、全くそのような状態になる事はあり得ません。物事のあるべき道理を判断する認識力は、境目というか別れ目がある程、人それぞれ違い、常識は一般人の平均的な価値観で成立している様に見えますが、誰にでもあてはまる事ではありません。あてはまる人ほど幸せで、外れる人程ストレスを感じるのです。
大きく外れたイエスや釈迦やマホメットは共通の価値観の中で暮らせるという幸せを得ることが出来ない中、出て来た【一部の人達】だと思います。人は知恵によっていろいろな様相に境目がある程分かれてしまっているので、狸と狐くらい違うので話が通じないのです。せめて狸と狐くらい違うという事を知って、共存できる敬える心と常識を学ばなければいけないと思います。人間は動物を保護できるのだから、同種(異種)の人間と共存できるよう常識を学んで欲しいと思います。人間は自分達だけ優位に居続けることは不可能なのです。



個人が書いた本には同感を求める心の動きが入り、読者が新しい経験をしているかのような心の動きを記憶する。 数人が創った映像は感動して喜び悲しみ刺激が残り、さらに刺激を求めるようになる。

 

心はどこから来て、なぜ、移り変って行くのでしょうか
生まれつきの性質は魂の表れであり、その魂を性分とか性根と表現しています。 
数千年、数万年の経験で養った性質は、一生では変わらず、視野の狭い者ほど、何回生まれ変わっても変わりません。 「三つ子の魂百まで」と表現されます。 
数多く生まれ変われば善い人に成るのであれば、人の世が荒んで行く訳が有りません。
生まれながらにして心は皆違います。性善説も性悪説もどちらも雑多にあてはまります。
たとえ、経験が少なくても、そこの風土を受けて、人は善くも悪くも変わって行きます。
心は魂の本質であり、人それぞれ見せかけ方が違います。正直な人は嘘がばれたり、逆に正直を装って嘘を本当に変える人もいます。裏の裏をかいて見せる人もいます。自ら社会をねじけて環境を乱します。
元の人の心とは、どんなものだったのでしょうか。それは、はかりごとのない、ただの記憶だけだったと思います。

理想因果ではなく、現実因果をフィクションではありますが、物語にして表現して見ました。
人の心
寅は、「間に合わないから」と言って、生まれる時期を早めて、この世に生まれました。
寅が4歳の時、忘れられないはっきりとした夢を見ました。
家の奥の一室で、父親が太鼓をドンドンドンと単調に叩いている。 寅と兄は逃げる態勢をしていた。 父親が太鼓を叩くのを止めると同時に、一斉に逃げ出すのです。 何故かと言うと、川の下流が左に湾曲していて1km位離れている下流の岸に、獅子舞が待機しているのです。 その獅子舞が太鼓の叩く音が止まると同時に襲ってくるのです。 川の湾曲を飛び越えて襲ってくるように察知しているのです。 父親が叩くのを止めた時、寅と兄は家から飛び出し、1km位上流に逃げ、寅は物陰に隠れ、兄は土手の上で獅子舞に捕まり、夢が覚めました。
父親は一緒に逃げていませんでした。 母親は全く夢に存在していませんでした。

それから1年後、寅の家族は父方の祖父母の家に引っ越しました。 
明治生まれの祖父母は質素な食生活をしていましたが、子供を他所に預けて町で遊び歩いていた母親の料理は、砂糖と醤油と油の味が強い物でした。 
祖父母は60代後半で、そのような料理は体が受け付けません。 祖父は食べられないと言いますが、母親は一向に改めません。 祖母はそれでも我慢して食べていました。 祖父はなるべく味の付いていないものを食べました。 
母親は毎日のように祖父母の悪口を子供に言い続けていました。「祖父母の家系はどこの馬の骨とも分らん」、「母方の家系は有名な武士の出であり、10kmにも及ぶ県道沿いの山は全て母方の土地であった」とか、「祖母は猫撫で声で卑しい人間だ」、「祖父は我がままで自分勝手だ、祖父母が母親に意地悪をする」、など日常のように言っていました。
同居して4年後、祖母は脳梗塞で亡くなりました。 
母親は泣いて見せる為に、1歳の子供を出しに使って「もう会えないのよ」と言って大泣きをして見せました。 9歳の寅は母親が嘘泣きをしているのがはっきり分かりました。
また、母親は「あそこの地区の者は、卑しい人達なのだ、母方の里に聞けば全て分る」と、8歳の寅に言いました。 
寅はその時、「自分はその地区の人の体に生まれていたかも知れない」と思いました。 だからこの母親は間違っていると思いました。 
寅はすでに、自分の意識が魂に依るものであり、体とは別だと思っていました。

寅は高校を卒業して家を出るまで、家の中では兄に虐げられていました。 
廊下を歩く時は、音を立てないように歩き、本をめくる時には音がしないようにめくって勉強していました。 
母親に改善を求めても、何もせず、「誰のおかげで食べられていると思っているのか」、「親に成ったら分かるよ」と捨て台詞のように言い放つだけでした。
寅は仰向けになると天井がグルグル回り、見る夢は何かに追いかけられるのだが、逃げるのに走っても走りがスローモーションになる。そして捕まる寸前で目が覚めるのです。その夢は15歳から30歳まで、18歳で家を出ても直りませんでした
寅は15歳の時、両親にはっきりと言いました。「私はあなた達から技術的な事は教わることはあるだろうけれど、精神的な事を教わることは一切無い」と。それはこの件だけではなく、幼少の頃からの思い出す気にもならない程の多くの事の結論でした。 
寅の味方は祖父母だけでした。

寅が28歳の時、寅は後頭部が自然と痛くなり1ヵ月位痛みが続いていました。 
脳神経外科でCTを撮っても原因が分からず、痛みは続いていました。 
そんなある日、知人から霊媒師を紹介されました。霊媒師が言うには、猫や狸など車に轢かれた動物が沢山憑いていると、寅が、亡くなった動物を見ると「成仏しますように」と念じるので、その動物霊が頼って離れず集まってしまったらしい。 
動物霊の救い上げをしてもらい、しばらくは頼って来る霊を、寅が跳ね返す力が付くまで、気を入れて救い上げをしてもらう事にしました。 
その霊媒師と話をしていると、霊媒師が驚いたように「十種大祓を称えるように」と誰かが言っていると、寅に伝えました。それと寅は十字架を背負っていると言う。 
何故十種大祓を称えるのか、十字架が何なのか分らないと言う。 
その後、三回目に会った時、霊媒師が言うのに、「母方の里の離れに般若の面があり、それが寅を狙って干渉している」と言う。離れを調べたが般若の面はありませんでした。
更にそれから三年後、別の二人目の霊媒師に、寅は物部の人物であったと言う。 
ここで一人目の霊媒師の十種大祓と二人目の霊媒師の物部の人物が繋がりました。 
母親が自慢していた「母方は有名な武士の家系である」というのを、二人目の霊媒師に聞いてみたら、その系統は入っていないと言う。
どうも上位に立つために脈略を自作したようである。 
更にそれから3年後、また別の三人目の霊媒師が言うには、寅の母親が般若の様な形相で寅を狙っていると言う。 寅を屈服させたいのだと言う。 
過去世で母親は姫であり、皆からもてはやされ色々な男が寄って来ていたという。 
しかし寅はこの姫の本性を見抜いており、相手にもしなかった。 
寅に色仕掛けを試みたが、見破られ本性を暴かれてしまった。 
それが悔しくて寅に仕返しをしたが敵わず、反対に寅にさらし者にされたらしい。 
それで復讐の為、寅が生まれる家系に嫁に入り寅の母親になったらしい。 
寅の父も兄も、過去世では人の上に立っていた人物であったが、寅にはかなわなかったらしい。
それと母親の先祖は、昔、獅子舞に潜んで人に近づき悪事をするような先祖であったという。
ここで4歳の時に見た夢に母親だけ居なかったのが分りました。母親は襲って来る獅子舞の中に居たのです。

それから更に3年後、3歳の子供が寅の家に来たとき、1階で話をしているのに「2階に口が裂けて目がつり上がった女がいる」と言う。 
それで今までの一人目の霊媒師が言った「母方の離れに般若の面があり、それが寅を狙って干渉していると言う」、や、3人目の霊媒師が言った「寅の母親が般若の様な形相で寅を狙っている」と言う、や、3歳の子供が言った「2階に口が裂けて目がつり上がった女がいる」と言った事が全て一つに繋がりました。 
更に、4歳の時見た獅子舞に襲われる夢で、夢の中に母親がいなかったのは、母親が獅子舞の中に入っていたから、父親が一緒に逃げなかったのは、既に母親と結婚していたから母親の手中に落ちていたから、兄が獅子舞に捕まったのは兄が既に母親の手中に落ちていたから、寅が逃げ延びたのは寅が母親の手中に落ちなかったから、と想像できました。 
別々の二人の霊媒師が言う事と3歳の子供が言う事が一致しており、現実に母親の、上から目線の知性の無い、掃き捨てるような言葉や数々の行動が、全てが一致しており、二人の霊媒師が見たものは、まやかしではなかったと確認できました。 
それでも寅は、母親の事は捨て置けと相手にもしていませんでした。

夢から始まって33年後に全てが繋がり、それから13年たっても母親は全く変わらず、それどころか、母親の兄に、「寅が母親を嫌いだと、世間で言わせないようにしてくれ」と頼み、叔父は寅に、「言う事を聞かないと家族一同縁を切る」と脅迫しました。 
そしてその日も94歳の叔父は「寅の祖母は猫撫で声の卑し~い人間で、祖父は自分勝手でわがままな意地悪な人間だ」と顔を歪めて強く言いました。 
だから寅は「そうしなさい」と言って離れました。 
叔父は以前、近所の人の悪口を言っていましたが、縁を切って一週間と経たない内に、近所のその人に、寅がひどい人間だと言って廻り、その人を取り込み、また、母方の親戚は「寅に見捨てられた」と、寅の関係する会社などにも、真反対の嘘を広めました。

母方の親族は寅の祖父母を、嘘を吐いて陥れたのに、母親の里の家長は寅が「母親を嫌いだと世間に言えば縁を切る、それが血というものだ」と言う。 正論のように見えますが、この場合、母方は祖父母を陥れておきながら、嫌いだと言われるのが不都合だから、縁を切るのが当然だと言うのは、それはまるで「逆らうとひどい目に合わす血筋だぞ」と、自白している様なものだと思いました。 
寅が母親を嫌だと言うのは、地元の人がいまだに、寅の祖父母が母親をいじめて母親が大変だったと、地元の人から聞かされ、思っている人が多くいるのを知ったからでした。 
祖母は死後43年経っても言われ続けているのです。
祖父は真っすぐな人でしたから何かにつけ陥れられていました。 
心が正しい人でしたから、仏様を信じていましたから、仏様が嘘を晴らしてくださると信じていましたから、陥れられても、陥れられても、何も言わず、するべきことをしていました。 
母親は「祖父が財産を皆、寺に寄付してしまう」と財産が減るのを気にして愚痴を言う位、祖父はお寺に寄付していました。 
祖父は、自分勝手な母親を里に帰したかったのですが、「孫を生んでくれたのだから仕方がない」と、思いを消していました。 
祖父は自分が建てた家も土地も捨てて自分のアパートに住もうと思って、祖母の父から受け継ぐ大切な仏壇を、祖母や祖父の兄や、早くに亡くなった祖父母の長男、次男の思いの籠る仏壇を、アパートに移していました。

寅もよく陥れられますから、それゆえに、嘘で陥れられた祖父母が悪人にされたままでいるのは、道理が違うと、世間に絶望していました。
だから、母親が同情されているのは捨て置けと相手にもしていませんでしたが、それが祖父母のいじめだと言われ続けている事は、真反対であると知っていましたから、母親とは会いも話もしませんでした。
だから人に母親の事を聞かれると、「母親が嫌いだから、母親の事を聞かれても何も分らない」と答えるのです。
寅の祖父は、祖父の兄が婿に入ってすぐに亡くなったので、兄の代わりとして婿に入りました。
祖父母は長男を病気で亡くし、次男は戦争で亡くしました。 
祖母は何年経っても外に出かけては親身な人の所で、亡くなった息子のことを思って涙を流していました。 
寅には祖父母の戦争で亡くなった次男の魂も入っています。
寅はその次男の命日が誕生日と同じ月日であり、死ぬときの記憶が二度甦った事があります。二度目は何の記憶かすぐ分ったので、即座に意識を断ちました。

母親の里の家長が、縁を切ると言った3日後、寅の頭の中でリズムが鳴っているのです。 
楽しいではなく、嬉しいという感じのリズムなのです。 
今まで聞いたことのない、とてもよく表現された不思議なリズムです。 
それが3日位続きました。 仕事中気が付くと鳴っているのです。 家にいる時も気が付くと鳴っているのです。 1日に何回も気付くのです。 
先祖が本当に喜んでいるのだろうと思えました。
書類上は親、親戚でも、魂の世界では縁が切れた事が分りました。 
寅は生まれるべき時期を、間に合わないからと言って、早く生まれ出たのは、この為だったと思いました。 自分のするべきことは成し遂げたと思いました。 

この一か月後、寅は不思議な夢を見ました。 光の玉が弧を描いてスーーッと飛んできて、寅はそれに乗るのだと気づき、光の玉が雑木林に居る寅の上を通過するとき、寅をスッと乗せ、木の間をものすごいスピードですり抜けていき、小高い山の頂上の平地にスッと降ろしました。 そこで夢は終わりました。
その夢で、先祖だけではなく、他の存在が気に掛けているのだと思いました。 
そこに居ては危険だから離してくれたのだろうと、思いました。

寅は霊媒体質であると、どの霊媒師も言います。 
三人目の霊媒師が言うには、寅は霊の意志が入るのを自ら拒否しているというのです。 
だから寅は見えたり聞こえたりしませんが、頭の中で閃くように自らの意志で分かると言うのです。 
寅は一人目の霊媒師に会ったときは、見えたり聞こえたり出来る様になればいいと思いましたが、会って一か月もしない内に、まがい者が寅の意識に関わるのは拒否すると強く意識していました。 
外から入って見せたり聞こえさせたりする意識は、本当なのか作為があるのか判断ができないから、惑わされているかもしれないのです。 
だから霊の意志が入るのを拒否しているのは自覚していました。 
寅は審神者であったように思います。

寅は霊夢のような夢をたまに見ます。 
夢で、聞いたことのない言葉を調べてみたら実際にある言葉であったり、夢で警告内容の文字が見えたり、夢で自分の体の悪い部分がレントゲンのように見えたりします。 
それを教える存在は、まがい者ではないとは言えませんが、本当に合っていました。

寅は、過去世から進歩のない魂が、増長して同じことを繰り返している事に気付きました。
因果応報は確かに有りますが、全てに当てはまる訳ではありません。
全てが因果応報であるならば、人の世が良くなって行くはずなのに、少なくても2000年前から歴史は繰り返し、人の世が荒んでいるままなのは論理に合いません。

因果応報という言葉を使って、恨んでいる者には関わらず、恨まれている者に非を認識させることで、その場をやり過ごそうとします。 
傲慢な者の方に寄り添って、「もうしないようにね」となだめているようなもので、性分は変わらず、魂は成長せず、何世代許しても、許しても、同じことを繰り返しています。
日本では因果応報が浸透していますが、本質を見ずに、安易に因果応報という言葉を使うと、言葉の威力が無くなり、恨みを持った者が復讐することを容認する事に成ります。 
それが逆恨みであっても間違いを正すのではなく、被者に「神仏の法則だから」と非を受入れさすのです。 
勝手に恨みを持った者勝ちになるのです。 今の日本が全くその通りの状態だと思います。

日本の霊界は、因果応報を教育された者が創った霊界ですから、本質を見ずに因果応報を鵜呑みにした先祖達が、霊界の意識で縁を繋げようとする時、敵同士を結婚の縁に繋ぎ、敵同士を親子の縁に繋ぎ、幼稚園児みたいに握手させ仲直りさせることが、誉れと思われるのです。
元の原因を精査して改めるのでなく、喧嘩両成敗が指導者の誉れになるのです。 
逆恨みする者を正す事が出来ないから、聞き分けの良い方に非を認識させることで、解決しようとするのです。 
だからせめて先祖には、冷静に正しく因果を心してもらいたいものです。

人を敬う心の無い人は、いずれ許される事を知っているのです。 
悪い事をする人は仕返しをしてくる人には手出ししません、そして人を許す人を見下しています。
恨んでいる霊はそのような波長をしていますから、同じような波長の霊が集まります。 
恨みを果たしたとしても、そのような霊に同調されて、少し気に入らない事があればすぐ人を恨みます。 
悪い友達の中に居るような状態です。
霊媒師はそのような霊を説得して人の心に帰すことが出来るほどの、説得できる畏怖を持っていません。 
その場では説得できても、しばらくするとまた元の愚狭な意志に戻ってしまいます。 
だから、霊媒師は原因がどうであれ、恨まれている被者に謝らせるのです。 
加者が嘘の情報を聞いて恨んでいても、被者がした事ではなくても、傀儡(クグツ)とさせて被者に謝らせたり、散財させることで加者の気を晴らさせようとするのです。 
しかし、それも一時しのぎで、後で「やっぱりそうかと、あいつが謝っているのだから自分に非があるわけない」と、恨んでいる加者を増長させることになります。 
被者は一度自分が悪いと思ったら、無意識にも加者に意識が飛び、加者の意識を呼び寄せて増長させてしまうのです。
恨んでいる霊にいちいち反応していると、波長を合わせてしまうので、自分の波長に穢れが入ります。感動して心が洗われるのと逆の作用です。

人それぞれには見守ってくれている先祖がいるのです。 その数は悪より遙かに多いのです。
悪は少数だから悪が成り立っているのです。 
悪ばかりになると、成り立たず、ただの地獄です。 
この様な悪の波長の霊界は、同じような波長が集まっていますから、これを地獄といいますが、本人たちは地獄に居ると思っていないのです。 
被者が加者に慈悲を掛ける事を止めた時、この加者の波長の世界は、本当は地獄ではないかと、加者が思うようになるのです。

自分の誉れを求めるあまり、許してはいけない事に慈悲を掛け許したから、問題を避けるために、口を閉じ見過ごしたから、自己主張をしなくても、神仏が明らかにしてくれると期待しているから、野放しにした本人とは縁の無い人が、無情にもその被害に侵され苦しみ、いずれ本人にも被害が及んでくるのです。

寅は夢の中で、ソドムとゴモラ状態という言葉を聞きました。 
初めて聞く言葉で意味が分りませんでしたが、調べたら、民が無秩序なため、神の怒りを買い、すでに救いようのない破滅の状態だと分りました。
意味があった事に驚きましたが、その意味が現状に合っている事に納得しました。

人の心が変わるのは、握手をして和解しても、人の悪い行いを見ても真に変わりはしません。
人の心が変わるのは、尊敬できる人を見て、あのように成りたい。 尊敬できる人から学び、心に染み入る事で、少しずつぼんやりと変わって行くのです。 
だから社会が持つ尊敬できる対象が、その社会の程度に成るのです。 
だから安易に因果応報で誤魔化さず、一つ一つ積み上げて行かないと、社会が持つ尊敬できる対象が変わって行かないのです。 
一つ一つ精査していくことで、人としての心が備わって来るのです。 
人としての心が備わっていないのを地獄と言うのです。

本格的に宗教が始まって2千年以上経つのに、変わらないという事は、「慈悲をかけて何度許されても、繰り返します」と自ら証明していると、寅は気づきました。 
この西暦2000年が期限だと気づきました。 この2000年を境に慈悲は途絶え、それこそ一蓮托生、魂は永久に別れるのだろうと思いました。

本当は誰しも、心は素晴らしい感動を求めているのに、それが手に届かないと思うと、人を陥れ、人の幸せを奪い、自分は勝ち上がったと自慢したところで、そこには心の感動は有りません。
記憶と知恵を持った人の心は、何に感動するのでしょうか。 
それは生命を感じとらえたとき、感動するのだと思います。 
そこから歌や踊りが生まれます。 
歌や踊りにも生命を感じ、そこから美味しい物を食べたいとか、綺麗な服を着たいとか、いい家に住みたいとか、思いますが、結局、記憶と知恵を持った人の心が本当に喜び、感動するのは、生命を感じとらえたときに帰るのです。 
生命を敬い、心が安心したときに初めて、はかりごとをしなくなるから、植物が酸素を発生し、酸素をエネルギーにして移動できる動物が発生できた、その環境を創ってくれた自然と、向き合えるのです。
その八百万の神の恵みが、最も価値あることだと分るのです。

 

魂と人体の関係を仮定し想像してみる
人間は人体と霊体と魂の繋がりでこの世にいる。 質量の重い順に並べると、人体・霊線・霊体・魂の順になる。
人体には引力がある。 引力には記憶と波長がある。 この記憶と波長が霊線である。

霊体は非常に弱い力で集合している。 集合しているから非常に弱いけど質量が有る。 壁など電子の結合の間を通り抜けるほどの小さいものが軽い結合をしている。 しかし重力よりは強い結合をしている。 質量は風を起こす。 言葉や音楽にも質量が有る。 赤子や猫等霊体の質量が見えるものがいる。 蛇は赤外線、蝶は紫外線が見える。 磁気に影響を受ける。 波長に違いがある。
魂は非常に小さい意識の集合体である。 小さい意識は小さい物に刻まれた経験である。 レコードや石に磁気記憶が残るように、質量が無いとされている光やニュートリノの質量に時間経過と共に刻まれた磁気記憶が集合して、少しずつ引力が増し、非常に小さい意識になる。 その意識が集合して魂に成る。 だから物や山や水も素粒子が振動していて意識と同じようなもので構成されている。 八百万の神という。
その魂の意識の引力が霊体(バリア)を作り、霊体で魂を防御している。 意識で密度を変化さすことで質量が変わる。 何万倍と変える事ができる。 魂は過去と未来が見える。 過去は当時の人の意識を翻訳して過去が分かるので、当時のその人(成りすましの作為に騙される事もある)が間違っていれば間違った過去を認識する。 または、自分に教えてくれる意識の存在がある時はその存在の認識の過去に成る。 未来の予知は、生まれる前に霊界のグループ内で現世に出る時を決める時、強い意志を持って生まれた人ほど(現世の思い込み意志ではなく)その近くを歩む。 軽はずみな意思で出てくる者は結局嘘を吐いて出て来た様な状態になる。 予知は教えてくれる意識の存在が映像や文字や意識で伝えてくるのを翻訳して認識できる。 意識の存在が間違うこともあり、翻訳が間違う事もある。 意識の存在は先祖であったり、縁ある存在であったりする。 霊界からは生まれる前の意志や現在の意志が見えるし、関係している人や霊の意識がほとんど分かるので、全てが見えていると勘違いするので、意識の存在が認識の範囲内で未来を予想して霊媒に伝えている。 意識が予想するという事は霊界ではその予想が現象化するということである。 予想の思い込みを解けば現象化した映像も変わる。 稀に正しい予想をする意識と霊媒の組み合わせが居る。 仮定の一歩目で自信が無い。
人体と霊体は霊線で繋がっていて、魂が人体へ影響して意志を持ち性格を表す。 脳や目が無い植物は昆虫から興味を引くため、また身を守る為、意識を体が受けて色や形や毒素を作る。
一つの魂は意識の集合体である。 一つの魂が一つの体を持つ生物(人間や動物)と、一つの主な魂が複数の魂と連携している生物(蜂や蟻)と、複数の魂が一種族の一つの魂に成っている生物(植物)がある。
一つの魂の経験密度は全てにおいて違う。 魂の強さは密度や仲間の数だけでなく、自分の意志の強さと守ってくれる魂の信頼の強さで魂の強さが大きくなる。 魂の強さや大きさのでき方は、本や映像や実体験から多くの気づきを探し、少しづつぼんやりと訂正しながら信念を構築していくことで、魂が強く大きくなるのであって、何々に成りたいと言うようなものではない。
霊体が幽体離脱している時は人体と霊体は霊線で繋がっているが、魂だけでも離脱することができる。
魂は霊体に守られており、魂の一部は一念で電磁波の速度で移動できる。しかしその時は霊体と残りの魂が少し危険になる。
魂の一部が離脱している時、霊体の防御作用が何らかの原因で弱まった時、半空きの霊体に「憑依しようとする他魂の力」、対、「残りの魂とそれを守ってくれる縁者の魂の和の力」が弱い場合、又は何らかの入口が開いたままの状態のとき、霊体を完全に、又は一部、又はある期間、奪われてしまい、憑依した他魂の思考を人体の脳が翻訳する時、人体の脳の思考範囲内で翻訳してしまうので伝達がうまく行かず、自分と他魂の影響を受け、又は神経の欠損で、多重人格や精神疾患を起こすのではないかと思う。
他魂は違う霊体に長く居座ることは不快を覚え、いずれ離れるが、前霊体より居心地がいい場合、又はそう思い込んでいる場合は居座ることもあると思う。
霊体は普段はその霊体特有の何かに守られており、他の如何なるものも霊体を占拠する事はできないのだが、何かが原因で占拠されたり、他霊体が霊体の回りを覆ったり、または他魂に自ら意識を合わせたり、何かの影響で自分の霊体の魂の気力が弱まると、憑依されてしまうのだと思う。また、憑依されなくても霊体と人体を繋ぐ霊線に何らかの異常が生じたり、人体の受信体に異常が生じると、人格に影響が出るのだと思う。そこに薬で抑えると侵入者だけを抑えられれば良いが、自意識までも抑えてしまうと守りが更に削られてしまうと想像する。
人体と霊体と魂の繋がりは感情の変化で千変万化する。 これも仮定の一歩目で自信が無い。
縁ある人が亡くなった時、物見遊山で葬式に来る人を避け、自宅でその人を想い、あの世の先祖にその人のことをお願いするのだが、私に他の事情で怒りがあった時は、そういう祈りはしない。私の怒りの感情が伝わってしまい、その人にどういう影響があるか分からないからです。それほど霊に対して意識を合わす事は軽々しく行動してはいけないと思います。