ああ、つかれた constantly & Auld Lang Syne

 

古代を彷徨い続けてもう25年(2015年)も経っていました。 色々な説や、おくり名あり、おまけに本を読んでも記憶力が悪くて、おぼろげな感覚しか残らず、今までに同じものを何度も読む始末。それに、歴史もいろいろな立場の数だけ歴史が出来るのだから、今となってはもういくら調べても確証は得られないと気付き、愛知・長野から隠岐、対馬、四国、鹿児島県まで神社を周って集めた栞(由緒書)を全部、本もほとんど捨てました(1999年)。しかしまた本を買っているしだいです。 そして当時の人となりを推測して歴史を推理することにしました。 西暦のない古代史は時代背景が浮かばないので、国の経験と人の経験が繋がらない、人が経験した感情が想像できない。石が出来る歴史ではないので、感情に対する行動を見てどういう歴史を創るのかをしりたいのだから、西暦が無いのなら同時に人物名も必要無くなる。おじいさんとおばあさんでよいのです。必要なのは鬼が誰で何故鬼にされたか、鬼は永久に鬼で誰も助けないのか、負けた民族はどうなるのかを、飛行機事故の調査の様に、酋長が皆に語り伝える様に、語り継ぐことのできる歴史が必要と思う。


古代の人と、現代の人の行動の思考は、すなわち脳は進化していないと思います。 動物の種類でいくら教育しても限界がある様に、人間の脳も限界があり、進化できないと思います。経験を活かして技術を進歩させる部分は秀でていますが、思考の本能は進化していないと思います。 だから歴史はくりかえし、戦争が無くならない、犯罪が無くならない。たぶん外面(そとづら)が良いのと技術を進歩させるのは、脳の同じ部分だと思います。 そう考えると、もっと本能的に人間の思考を推測すれば、古代が見えるのではないかと、思います。


縄文人は、遺跡を見ると、1kmと離れていない距離で、全く違う部族が暮らしていたようです。 また、新しい文化も縄文人が主導的に取り入れていたようです。 日本語が無くならなかったのも、その証です。 しかし、腹が立てば殺したはずです。 巫女の神の言葉が歯止めになっていたかもしれません。 水面に移る顔を見て、地震、雷を見て神を想い、畏れ、神の御意志を察して、生贄もして見ましたが、災害も食料も思うようにならず、巫女に神の御意志を尋ねると、先祖霊が先祖霊の解る範囲内で助言してくれました。 現代では地震や雷の畏れが、高次元に替わりました。 自分を崇めすぎたために、高次元に救いを求め、動物として自力で生きようとしないのです。生贄の替わりは何になるのでしょうか、自虐でしょうか。 このような繰り返しを見れば歴史が見えやすくなると、思いました。


天照大神は最高神霊である太陽神の分け御魂を宿す人、分け御魂だから、同時期に日巫女が複数居る場合は、和御魂、幸御魂、奇御魂、荒御魂、と呼び分ける。 潮の干満、月経に関わる月読、 暴風雨、荒波の素戔嗚、 天~雨~川~海~天の祓戸四神。 星神の中心の北極星天之御中主、 鳥が種や神霊を運んでくるので鳥居、鳥居の上に石を投げるのは妨害。(鳥居之祓ー神の在座鳥居に伊禮は此身より日月の宮と安らげくす) 蛇が脱皮して生まれ変わるので永遠の命。 巫女に正しい神霊と、悪い神霊が憑くので、審神者が判断する。 男王が巫女に神意を聞き、男王がまつりごとをする。 鏡は魂を吸い取るので割って魂を抜く。 悪い憑き物を土偶に移しその部位を壊す。 罪を人形に移し、人形を罰する(効果が無い場合は身分の低い者か、敵対する者に罪を移し(傀儡)祟りを自分から逸らす)。真逆の嘘を本当にする(鷽替え・ウソカエ)。 神の助けを得る為に生贄を捧げる。 現代も形が違うだけで同じことを繰り返しており、だから未来も見えてくる。これからも永久に無情がつきまとう。 

 

歴史は解明不可能だけど歴史から先人の伝言を探したい「無慈悲に知恵が誤認を深める」
歴史が改ざんされているという事は、勝者が悪行をした(隠したい)証しといえる。
部族対部族の争いと考え易いが、親子、兄弟、巫女間、男女間の争いから、そこに他部族に応援を求める争いも多いと思える。後に部族間争いと言われるが発端は違う。

707年7月と708年1月に、山奥に隠れて禁書を隠し持ち、百日経っても自首しなかった者は刑罰を与えると発令し、713年には各国に風土記を編集し提出させている。

平安時代になると、神は仏の化身であると権威が動く。平安時代、鎌倉時代に信者が各地に八幡宮を勧請し新しい神が入る。 江戸時代には稲荷社が広まる。
神仏でも流行で左右するのに、人の脳には揺ぎ無い正義となり、その類の誤認が人を裁く。

たとえ禁書が残っていたとしても、そちらの正義であって真実とは証明できない。 見聞録も思い違いや、嘘の情報を聞いている方が確立は高いと思える。 各人が根拠を持って証明しているが、根拠を当てはめる為、歴史を知りたいのではなく、根拠(歴史)を創っている様に感じる。古代史に興味をもった人が古代史に入ろうとすると、くどくどしさに嫌気がさして歴史を見ようとしなくなる。記紀神話が作り話だから、古代史研究を始めたはずなのに、現代の事は疑うのに古代の大筋は疑わず大家の解釈を右往左往するのは、脳はどういう傾向に働くのか、人間の経験という史実探求に絶望の憾がある。 夜空の古代史は状況と人柄や民族性を想像し断定せず大まかな感覚で推測し、このような流れではないだろうかという提案です。先人は本の為に生きたのではない、重箱の隅を突いて話を広げる為に生きたのではない。経験を伝え蓄積しリレーして来たのです。しかし、その経験が数年の内に消され、先人の経験を無駄にすることもあります。その経験には耐えがたい悲しみがあったにも関わらず、一部の弁が立つ者の栄誉の為に打ち消され、歴史が役に立たないのです。人間の性悪性を自ら認めているからこそ、してはいけない事も判るのです。過ぎた事は仕方ないからこれからが大事だと聞こえの良い事を言いますが、過ぎた事を伝えていかないと何度も繰り返す事に成ります。当たり前にしてはいけない事を人間は繰り返しするのです。人間は経験をリレーして成長していくのです。教育とは経験の積み重ねを重ねていく事です。作為を入れず正しく歴史を伝える事が、民族の知性・精神・人間味になるのです。自分では気づかない民族性ができた流れが見えて、自分が見えてくるのです。現代の古代史研究の先には何があるのでしょうか。


意欲の強い者が皆を扇動し、多くの民を荒波に引きずり込み、正義と主張する。正しい事を言うと、思い通りにならないので、本当の事を言う者が潰され、人間は思量の浅い知恵で自意識過剰の者が主導する歴史を繰り返し、正しかった言葉が消されていく。 時にはブッタやイエスやマホメットなどが世直しをしようと発言することがあるが、権力者にとって世直しとは皆が本当の事を知る事であり、権力が無くなる事であるから、世直しが出来たためしがない。世直しをすること自体が不可能であると気付かなかったことが彼らの失敗である。権力者は皆から税金を集め皆の為に税金を使って皆に施しをする。言い換えれば、執事(権力者)は主人(皆)から金を預かり主人(皆)の為に必要な仕事をする。立場もすべき事も逆にあることさえ気づかない。植物や動物と同じように人間も力の無い者を切り捨てて自らの種族を保ってきているのに、自分達人間は助け合い動植物を保護していると、まるで神と同じ意志であると、自分を崇め奉っている。偽証された歴史を明らかにすることによって人間を知ることが出来る。人間は嘘を吐く動物であり、正直者は潰されてしまう、植物や動物と同じで人間は特別ではないと崇高ではないと、神に近づくなどという発想自体が浅い知恵を持った愚かゆえの発想であると気付く第一歩が、神という枠から出て意識の幅を広げる事に成る。この宇宙に人間が居ても居なくても、恐竜が絶滅したのと同じように、たとえ地球を破壊しても、宇宙には何の問題も無いと気付くことが、知恵を持ってしまった人間の悲しみでもあり、意識の進歩の一歩目でもある。 動植物はそれぞれの集団の意識の知恵がある故の生態なのかもしれない、人間は個々に自ら生態を不便に進めているのかも知れない。

人間だけが、絶望し、そこから気力を見い出し、再び悩み迷い同じことを繰り返し続ける。 宇宙から見れば何でもないのに。 未来から見れば変えられてしまう過去なのに。 物も権威も壊れるのに。 隠し事の無い魂だけが、怯えることがなく、この上なく幸せなのに、なんで、はかりごとを巡らすのだろう。

 

ひと休み
スコットランド民謡の Auld lang syne の曲は、 ヘブライ人のダンサーたちによってスコットランドに伝わったダンスの中からきているそうです。 その曲にロバートバーンズが詩を入れました。 世界各国で翻訳され、年明けに歌われています。 日本では編曲され詩を替えて「蛍の光」で知られています。
ここでは 青字がScottish 黒字がEnglish ロバートバーンズの詩を和訳 で書いています。

 

background music

 

Auld lang syne   
Should auld acquaintance be forgot and never brought to mind?
Should old acquaintance be forgotten and never brought to mind
古くからの友のことを忘れて思い出せないなんて、あると思う?
Should auld acquaintance be forgot and days of auld lang syne?
Should old acquaintance be forgotten and of old long since
古くからの友が思い出を忘れ去るなんて、あると思う?
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne,
For old long since, my dear, for old long since
過ぎ去った時と、懐かしかった頃の為に、 友よ
We’ll tak’ a cup o’ kindness yet, for days of auld lang syne.
We’ll take a cup of kindness yet, for days of old long since
変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、 流れた時を埋める為に
We twa hae run aboot the braes, and pulled the gowans fine.
We two have run about the slopes and picked the daisies fine
二人で丘を駆け回り、 ヒナ菊をたくさん摘んだよね
But we’ve wander’d many a weary fit, since days of auld lang syne.
But we’ve wandered many a weary foot since days of old long since
あの頃は、 足がくたびれるまで歩き続けたよね
And we twa hae paidl’d in the burn, frae morn’n sun till dine.
And we two have paddled in the stream from morning sun till dinner
そして、日の出から、夕ご飯まで小川で遊んでいたね
But seas between us braid hae roar’d since days of auld lang syne.
But seas between us broad have roared since days of old long since
荒れた海が二人の間に横たわっているような時もあったね
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne,
For old long since , my dear, for old long since
過ぎ去った時と、懐かしかった頃の為に、 友よ
We’ll tak’ a cup o’ kindness yet for days of auld lang syne.
We’ll take a cup of kindness yet, for days of old long since
変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、 流れた時を埋める為に

And surely ye’ll bee your pint-stoup, and surely I’ll bee mine.
And surely you’ll buy your pint cup, and surely I’ll buy mine
きっと、 ビール腹になってしまうよ、 僕もね
And we’ll tak’ a cup o’ kindness yet, for auld lang syne.
And we’ll take a cup of kindness yet, for old long since
そしてまた、 変わらぬ友情の為に祝杯を交わし、流れた時を埋めようよ
And there’s a hand , my trusty fiere, and gie’s a hand o’ thine.
And there’s a hand my trusty friend and give me a hand of yours
さあ、友よ手を取り合い、流れ去った時を取戻そう
And we’ll tak’ a right gude-willie waught for auld lang syne.
And we’ll take a right good-will draught for old long since
流れた時を埋める為、 心を通わせよう
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne.
For old long since , my dear, for old long since
過ぎ去った時と、懐かしかった頃の為に、 友よ
We’ll tak’ a cup o’ kindness yet, for auld lang syne.
We’ll take a cup of kindness yet, for old long since
変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、 流れた時を埋める為に
For auld lang syne, my dear, for auld lang syne.
For old long since , my dear, for old long since
過ぎ去った時と、懐かしかった頃の為に、 友よ
We’ll tak’ a cup o’ kindness yet, for auld lang syne.
We’ll take a cup of kindness yet, for old long since
変わらぬ友情の為に祝杯を交わそうよ、 流れた時を埋める為に